歩いて海藻を調べたところ、下駄の跡が潮に淘《ゆら》るる鉄砂で黒く二の字を画く処あり。浜の宮には鉄砂の中へ稲を種《う》えたよう見えた田もあった。因ってかつて見た妓家どもの壁は純《もっぱ》らこの辺の鉄砂で塗られたものと断じた。
 予は鉱物学を廃して三十七年になり、件《くだん》の海辺へは十四年も往かぬから右のほかに一辞を添ゆる事がならぬが、『和歌山県誌』など近く成った物に、一切紀州に鉄砂ある由を記さない。して見ると予ほどこの事を知った者が只今多からぬと疑う。鉄は金銀と異なり、わずかな分量では利得にならぬと聞いたが、頃日《このごろ》米国禁鉄となってから、一粒の鉄砂も麁末《そまつ》にならぬような話を承る、ふとした事から多大の国益が拡がった例多ければ、妓家の黒壁が邦家の慶事を啓《ひら》かぬにも限らぬと存じ、本誌紙面を藉《か》りてその筋の注意を惹《ひ》き置く。
 この類の事まだ夥しくあるが、今度はこれで打ち切りとして、もし私人がこの文を読むに起因して大儲けをしたら、お富も三十七まで仲居奉公に飽きてこの上娘が承知せぬというから、なるべく大金を餽《おく》って片付けやってくれ。また政府が予の発見発言の功を認むるの日が幸いにあったなら、勲章の何のと下さるに及ばず、海外多数の碩学《せきがく》名士が毎《いつ》も同情せらるる予の微力を以て老いの既に至れるを知らず、ややもすれば眠食を廃して苦心する研究に大|妨碍《ぼうがい》を加うる和歌山県の官公吏を戒飭《かいちょく》して、彼輩衣食のために無益の事を繁《しげ》く興し、あるいは奸民と結託し、あるいは謄記料を撤免してまでも、日本国光の一大要素たる古社神林を棄市|凌遅《りょうち》同然の惨刑に処し、その山を赭にしその海を蕩《とう》し、世界希覯の多種の貴重生物をして身を竄《かく》し胤を留むるに処なからしめて、良好の結果を得たりなど虚偽の報告を上《たてまつ》りて揚々たるを厳制されたしと啓《もう》す。もっとも海外に限らず海内《かいだい》にも多少の同情を寄せらるる人少なからぬが、その多くは官吏で飯の懸念から十分に加勢もしてくれず。かつて大阪府の薄給官吏が血書してこの意を述べ、空しく予の志を怜《あわ》れむと匿名書を贈られたが最上の出来じゃ。また甚だしきは当路に媚《こ》びたり、浅薄なる外来宣教師に佞《ねい》したり、予を悪口|嘲弄《ちょうろう》する奴もある。昔|織田右馬助《おだうまのすけ》人の賄《まいない》を再三取った時信長が「銭ぐつわはめられたるか右馬助、人畜生とこれを云《い》ふらむ」と詠み送った。銭勒《ぜにぐつわ》の利かぬような者は難いかな今の世に免れん事をと歎息し、智馬をして空しく無識の販馬商《うまうり》の鞍下に羸死《つかれし》せしめぬよう冀望《きぼう》を述べてこの章を終結する。

     名称

 馬、梵名アス、ヌアスワ、またヒヤ、ペルシア名アスプ、スウェーデンでハスト、露国でロシャド、ポーランドでコン、トルコでスック、ヘブリウでスス、アラブでヒサーン、スペインでカバヨ、イタリアとポルトガルでカヴァヨ、ビルマでソン、インドでゴラ(ヒンズ語)、グラム(テルグ語)、クドリ(タミル語)、オランダでパールト、ウェールスでセフル、かく種々の名は定めて種々の訳で付けられ、中には馬の鳴き声、足音を擬《まね》て名としたのもあるべきがちょっと分らぬ。支那で馬と書くは象形字と知れ切って居るが、その音は嘶声を擬《まね》たものと解くほかなかろう。『下学集』に胡馬《うま》の二字でウマなるを、日本で馬一字を胡馬《うま》というは無理に似たり、〈馬多く北胡に出《い》づ、故に胡馬というなり〉と説いたが、物茂卿が、梅《めい》をウメ馬《ま》をウマというは皆音なりというた方が至当で、ウは発音の便宜上加えられたんだろ。
 故マクス・ミュラー説に、鸚鵡《おうむ》すら見るに随って雄鶏また雌鶏の声を擬し、自ら見るところの何物たるを人に報《しら》す。それと等しく蛮民は妙に動物の鳴音を擬《まね》る故、馬の嘶声を擬れば馬を名ざすに事足りたはずだが、それはほんの物真似で言語というに足らぬ。われわれアリヤ種の言語はそんな下等なものでなく、馬を名ざすにもその声を擬《まね》ず。アリヤ種の祖先が馬を名ざすに、そのもっとも著しい性質としてその足の疾き事を採用した。梵語アース(迅速)、ギリシア語のアコケー(尖頂《けんさき》)、ラテンのアクス(鍼《はり》)、アケル(迅速また鋭利また明察)、英語アキュート(鋭利)等から煎《せん》じ詰めて、これら諸語種の根源だったアリヤ語に鋭利また迅速を意味するアスてふ詞《ことば》あったと知る。そのアスがアスヴァ(走るものの義)、すなわち馬の梵名、リチュアニア語のアスズウア(牝馬)、ラテンのエクヴス、ギリシアのヒッコス、古サクソンのエツ(いずれも馬)等を生じた
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