韓退之《かんたいし》がいわゆる、牛溲馬勃《ぎゅうそうばぼつ》、ともに収め並びに蓄《か》うで、良医が用うれば馬糞も大功を奏し、不心得な奴が持てば金銭も馬糞同然だ。退之の件《くだん》の語中の馬勃は牛の小便に対して馬の糞を指《さ》したんだが、『本草』に掲げた馬勃は馬糞に似た胆子菌リコベルドン、スクレロデルマ等諸属、邦俗チリタケ、ホコリタケなど呼ぶ物に当る(『本草図譜』三五巻末図見るべし)。第一図[#図省略]に示すはこれらに近縁あるポリサックム属の二種、いずれも田辺で採った。瞥見《ちょっとめ》にはこれも馬の糞|生写《いきうつ》しな菌である。今までおよそ二十種ばかり記載された事と思うが、予が知り及んだところ濠州に最《いと》多種あり、三十年ほど前欧州に四種、米国に二種、そのフロリダ州では予が初めて見出したらしく、今もその品を蔵し先年来訪されたスウィングル氏にも見せた。本邦では十八年前予英国より帰著の翌朝、泉州谷川で初めて見出し、爾後紀州諸郡殊に温かな海浜の砂中に多く、従来西人の記載に随えば少なくとも三種は日本にありと知ったが、自分永年の観察を以てすればこの三種は確乎たる別種でなく、どうもポリサックム・ピソカルピウムてふ一種の三態たるに過ぎぬごとし。因ってこの一つの名もて、白井博士に報じ、その近出に係る『訂正増補日本菌類目録』四八五頁に録された。さてこの菌は、米国植物興産局の当事者たるスウィングル氏(予と同時にフロリダにあって研究した人)も近年予に聞くまで気付かなんだらしいが、予は三十年前から気が付きおり、染料として効果著しきもので、貧民どもに教えて、見るに随って集め蓄えしめたら大いに生産の一助となる事と思う。ただし予も今に余暇ごとに研究を続けおり、これより外に一言も洩らさぬ故、例の三銭の切手一枚封じ越したり、カステラ一箱持って遥々《はるばる》錦城館のお富(この艶婦の事は、昨年四月一日の『日本及日本人』に出でおり艦長などがわざわざ面を見に来るとて当人鼻高し)を介して尋ね来りしたってだめだと述べ切って置く。欧米の人はかかる事をちょっと聞いたきり雀で、諄々《くどくど》枝葉の子細を問わず、力《つと》めて自ら研究してその説の真偽を明らめ、偽と知れたらすなわちやむ。もしいささかも採るべきありと見れば、他の工夫処方の如何《いかん》を顧みず、奮うて自家独見の発明に従事する。前日ス氏来訪された時、予が従来与えた書信をことごとく写真して番号を打ち携えいた。その言|寡《すく》なくて注意の深き、感歎のほかなし。今のわが邦人の多くはこれに反し、自分に何たる精誠も熱心もなきに、水の分量から薬の手加減まで解りもせぬ事を根問《ねど》いして、半信半疑で鼻唄半分取り懸るから到底物にならぬ。
予がこの菌を染料にと思い立ったは、フロリダで支那人の牛肉店に見世番を勤めていた時の事で、決して書籍で他《ひと》様の智慧《ちえ》を借りたのでないが、万事について、書籍を楯《たて》に取る日本の学者が、自分の卑劣根性より法螺《ほら》などと推量さるるも面白からぬから、その後知るに及んだ一八五七年版バークレイの『隠花植物学入門《イントロダクション・ツー・クリプトガミク・ボタニー》』三四五頁に、ポリサックムは黄色の染料を出しイタリアで多く用いらる。一八八三年四版グリフィスとヘンフレイの『顕微鏡学字彙《ゼ・ミクログラフィク・ジクショナリー》』六二三頁に、英国にただ一種|甚《いと》罕《まれ》に生ず、外国にはその一種を染料とすとあると述べ置く。ただし予が知るところ、邦産は三種にせよ三態にせよ、いずれも均《ひと》しく役に立つ。初夏から初冬まで海より遠からぬ丘陵また殊に沙浜《すなはま》に少なからず、注意せば随分多く集まる物と思う。黄土や無名異《むみょうい》に似て見えるから鉄を含んだ物と判る。鉄をいったついでに今一つ国益になる事を教えつかわす。
往年東牟婁郡の某々の村を通り、家々の様子を見ると何となく昔見た東国諸駅の妓家に似おった。因って聞き合すと、以前この二村の娘年頃になると皆特種の勤めを稼ぎ父兄を資《たす》け、遠近これを讃《たた》えて善くその勤めを成した娘を争い娶《めと》ったが、維新以後その俗|廃《すた》れ家のみ昔の構造のまま残るといった。古戦場を弔うような感想を生じてその一軒に入り、中食《ちゅうじき》を求め数多き一間に入って食いながら床間《とこのま》を見ると、鉄砂で黒く塗りいる。他の諸室を歴《へ》巡《めぐ》るに皆同様なり。それから事に託して他の一、二家に入って見るとやはりかくのごとし。この砂は何地の砂かと聞いたが、耄《ぼれ》叟《おやじ》や婦女子ばかりで何だか分らず、こんな地へ遠国より古くかかる物を持ち来るはずなければ、必ずこの地に多く鉄砂を産する事と考えた。その後勝浦から海伝いに浜の宮まで川口を横ぎり
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