れなくなり、窃《ひそ》かに井中へ囁き込むと、魚が聞いて触れ散らし角の噂が拡まったので王死んでしまい、二使人不死の水を持ち帰っても及ばず、共にこれを飲んで今に死なず、一人は人に見《まみ》えずに地上を周遊して善人を助け、一人は純《もっぱ》ら牛を護るという(グベルナチス伯とサルキンの説)。
 上述の月氏国王が謀を馬に洩らして弑《しい》に遭ったり、フリギアや蒙古の王の理髪人が穴に秘密を洩らしたりしたについて想い起すは、アラビヤ人が屁《へ》を埋めた話で、これもその節高木君へ報じたが、その後これについて、政友会の重鎮岡崎邦輔氏が、大いに感服された珍談がある。人を傭《やと》うて書き立ててもらおうにも銭がないから、不躾《ぶしつけ》ながら自筆で自慢譚とする。昔アラビヤのアブ・ハサンてふ者カウカバン市で商いし大いに富んだが、妻を喪《うしの》うて新たに室女《きむすめ》を娶《めと》り大いに宴を張って多人を饗し、婦人連まず新婦に謁し次にアを喚《よ》ぶ。新婦の房に入らんとて恭《うやうや》しく座を起たんとし、一発高く屁を放《ひ》ってけり。衆客彼|慙《は》じて自殺せん事を恐れ、相顧みてわざと大声で雑談し以て聞かざる真似した。しかるにア、心羞ずる事甚だしく新婦の房へ入らず、厠《かわや》に行くふりして庭に飛び下り、馬に乗って泣きながら走り出で、インドに渡り王の近衛兵の指揮官まで昇り、面白|可笑《おか》しく十年を過した。その時たちまち故郷を懐《おも》うて死ぬべく覚えたので、王宮を脱走してアラビヤに帰り、名を変じ僧服し徒歩|艱苦《かんく》してカウカバン市に近づき還った。ここを去って久しくなるが、今も誰か己の事を記憶し居るかしらと惟《おも》うて、市の周辺を七昼夜潜み歩いて聞き行くうち、とある小家の戸口に坐った。家裏で小女の声して自分の年齢を問う様子。耳を聳《そばだ》て聞きいると、母答えて汝はちょうどアブ・ハサンが屁を放った晩に生まれたと言うを聞きて、さてはわが放屁はここの人々が齢を紀する年号同然になりおり永劫忘らるべきにあらずと、大いに落胆して永く他国に住《とど》まり終ったという。正確を以て聞えたニエビュールの『亜喇比亜紀行《ベシュライブンク・フォン・アラビエン》』にも屁を放って国外へ逐われた例を挙げおり、一七三五年版ローラン・ダーヴィユーの『文集』巻三にも、二商人伴れ行くうち一人放屁せしを他の一人|瞋《いか》って殺さんとす。放《ひ》りし者ことごとくその財物を捧げて助命さる。他の一人この事洩らすまじと誓いしを忘れ言い散らし、放りし者|居堪《いたたま》らず脱走す。三十年経て故郷に還る途上その近処の川辺に息《やす》む。たまたま水汲みに来た婦ども互いに齢を語るが耳に入る。一婦いわく、妾は某大官がコンスタンチノープルへ拘引された年生まれた。次のはいわく某大官|歿《ぼっ》せし年と。第三婦言う雪多く降った年と。第四婦ここにおいて妾は某生が屁放った年生まれたと明言するのが自分の名だったから、その人これじゃとてもわが臭名は消ゆる期なしと悟り、直ちに他国に遁《のが》れて三度と故郷を見なんだと載せ、また一アラビヤ人屁迫る事急なるより、天幕外遠隔の地へ駈け行き、小刀で地に穴掘り、その上に尻を据《す》え、尻と穴との間を土で詰め廻しとあるから、近年流行の醋酸《さくさん》採りの窯を築くほどの大工事じゃ。さていよいよ放《ひ》り込むや否や直ちにその穴を土で埋め、かくて声も香も他に知れざりしを確かめ、やっと安心して帰ったとあって、この書世に出た頃大いに疑われたが、ニエビュールがその真実たるを証言した。

     伝説二

 さきに『淮南子』の塞翁の馬の譚は支那特有のものらしいと述べ置いた。その後種々調べても支那外の国にかかる譚あるを見当てぬが、支那自身においては『淮南子』より三百年ほど前似たものが行われいた。それは『列子』の説符第八に、三代続いて仁義を行った宋人方の黒牛が白い犢《こうし》を生んだので、孔子に問うと吉祥と答えその犢もて神を祭らしめたが、ほどなくその人盲となった。その後その牛また白い犢を生み、孔子に問うと、相変らず吉祥と答えまた祭らしめると、一年してその人の子も盲となり、これでは孔子の予言も当てにならぬと思いいる内、楚軍宋を囲み宋人従軍して多く死す。しかるに彼の父子のみ揃《そろ》うて盲の故を以て徴兵を免れ、さて戦い済んで二人ながらたちまち眼が開いたから、前に不吉と惟《おも》うた事も孔子が言った通り吉祥と知れたとあって、林希逸は〈この章塞翁馬を得て馬を失うと意同じ〉と評した。人間万事塞翁の馬という代りに、宋人の牛といっても可なりだ。漢の王充の『論衡』六にもこの話出づ。これから屁の話の続きだ。
 ローラン・ダーヴィユーまた述べたは、かつてアラビヤのある港で、一水夫が灰一俵|※[#「てへん+建
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