」、第3水準1−84−84]《かた》ぐるとて一つ取り外《はず》すと、聴衆一同無上の不浄に汚されたごとく争うて海に入るを睹《み》た。またアラビヤ人集まった処で一人ローランに仏人能く屁を怺《こら》えるの徳ありやと問うた。無理に怺えてはすこぶる身を害すれど、放《ひ》って人に聞かしむるを極めて無礼とす、しかしそれがため終身醜名を負うような事なしと答うると、斉《ひと》しく一同逃げ去った。問いを発した本人は暫く茫然自失の様子、さて一語を出さず突然起って奔りおわり爾後見た事なしと。ロ氏のこの談で察すると、当時仏人は音さえ立てずば放って悔いなんだらしい。いかさま屁の事は臭きより後にする道理で、予はこの方とんと不得手故詳しく調べ置かなんだが、ロ氏に後るるおよそ百年ジュフールの説に、古ローマ人は盛礼と祭典の集会においてのみ屁を制禁したが、その他の場所また殊に食時これを放るを少しも咎めず、ただしアプレウスの書に無花果《いちじく》の一種能く屁放らしむるを婦女避けて食わずとあれば、婦女はなるべく扣《ひか》え慎んだらしいとあって、古ローマ人は放屁に関して吾輩と全く別の考えを懐《いだ》いたのだと断じ居る。されば他事はともあれ、屁の慎みは今の欧人が昔よりも改進したのだ。予が学び知るところまた自ら経験せるところを以てすれば、屁とか※[#「口+穢のつくり」、第3水準1−15−21]《しゃくり》とかいうものはこれを恣《ほしいま》まにすれば所を嫌わず続出し、これを忍べば習い性となって決して暴《にわ》かに出て来るものでない。故アーネスト・ハートなどは、人と語る中ややもすれば句切り同然に放っていたが、それは廉将軍の三遺失に等しく、甚《ひど》く耄《ぼ》れたのだ。今日満足な欧人で音さえ立てずば放捨御免など主唱する者なく、上流また真面目な人はその話さえせぬ。却説《さて》一昨年岡崎邦輔君の紹介である人が予に尋ねられたは、何とかいう鉄道は鬼門に向いて敷設され居るとて一向乗客少ない。鬼門など全く開けた世に言うべき事でない理由を弁じて衆妄を排し、かの鉄道の繁栄する方法がありそうなものというような事だった。因って予岡崎君に返事した大要は、マックズーガル説に、人間は訳が判ったからって物を怖れぬに限らぬ。自分は動物園の鉄圏堅くてなかなか猛獣が出で来るべきにあらずと知悉すれど、虎がこっちへ飛び掛りて咆ゆるごとに怖ろしくてわが身の寒きを覚えるを制し得なんだ事ありとあったと記憶する。それと等しく鬼門の祟《たた》りなど凡衆にとって有無ともに確証を認めぬながら、君子は有るを慮《おもんぱか》り無しを慮らず、用心に越した事なしてふ了簡がほとんど天性となり居るところへ以て、蘇張の弁でその妄を説いたって容易に利く事でなかろう。かつそれ風を移し俗を易《か》えるは社会の上層から始め、下これに倣うてようやく事成る。しかるにわずか数年前横浜の外字新聞にわが国貴勝の隠れさせたまえる時刻に真仮の二様あったとて、かかる国民に何の史実何の誠意を期待し得べきと手酷く難詰しあったそうで、その訳文を京阪の諸紙で見た。陰陽道《おんようどう》で日や時の吉凶を詳しく穿議した古風を沿襲しての事と存ずるが、この世を去るに吉日も凶時もあるものかという外人の理窟ももっともだ。が上《かみ》つ方《かた》においては例の有るを慮り無しを慮らざる用心から、依然旧慣に循《したが》わるるのであろう。その可否のごときは吾輩賤人の議すべきでないが、社会の上層既にかかる因襲を廃せぬに、下層凡俗それ相応に鬼門の忌を墨守するを、吾輩何と雑言したりとて破り撤《す》てしめ得らりょうぞ。さてついでに申し置くは壮時随分諸邦を歩いた時の事と思《おぼ》し召せ。ある邦の元首大漸の公報に、その詳細を極めんとの用意が過ぎて、下気出る時の様子までも載せあった。昔は帝堯が己に譲位すべしと聞いて潁川《えいせん》に耳を洗うた変物あり、近くは屁を聞いて海に入り、屁を聞かせじと砂に賺《すか》し込む頑民あり、さまでになくとも高貴の方の下気など誰一人あるべき事と期待もせねば、聴きたがりもせず。それを公報に載せて職に尽くせしと誇るは、羊を攘《ぬす》んだ父を訴えた直躬者《ちょっきゅうしゃ》同然だ。かかる無用の事を聞かせて異種殊俗の民に侮慢の念を生ぜしめ、鼎《かなえ》の軽重を問わるるの緒を啓《ひら》いた例少なからず。かく言うものの、賺《すか》し屁の放《ひ》り元同然日本における屁の故事を詳《つまび》らかにせねど、天正十三年千葉新介が小姓に弑せられたは屁を咎めしに由り、風来《ふうらい》の書いた物に遊女が放屁を恥じて自殺せんとするを、通人ども堅く口外せぬと誓書を与えて止めたと見れば、大昔から日本人は古ローマ人のごとく屁を寛仮せず、海に入り砂に埋むるまでなくとも、むしろアラビヤ人流に厳しく忌んだらしい。これすなわ
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