と》き、用《も》って眼臉に塗らば、形まさに自ずから隠るべしと。尋《つ》いで師の教えを受け、各この薬を磨くに、竜樹|香《かおり》を聞《か》ぎてすなわち便《ただ》ちにこれを識る。数の多少を分かつに、錙銖《ししゅ》も失うなし。還《かえ》りてその師に向い、具さにこの事を陳《の》ぶるに、この薬満ち足りて七十種あり、名字・両数皆その方のごとし。師聞きて驚愕し、その由る所を問うに、竜樹答えて言う、大師まさに知るべし、一切の諸薬は自ずから気分あり、これに因りてこれを知る、何ぞ怪しむに足らんやと。師その言を聞き、いまだかつてあらずと嘆じ、すなわちこれなる念《おも》いを作《な》す。この人の若《ごと》きはこれを聞くもなお難し、いわんや我親しく遇いたり、而してこの術を惜しまんやと。すなわちその法を以て具さに四人に授く。四人法に依りて此の薬を和合し、自ずからその身を翳《かく》し、游行自在なり。すなわち共に相|将《ひき》いて、王の後宮に入る。宮中の美人、皆侵掠され、百余日の後、懐妊する者|衆《おお》く、尋《つ》いで往きて王に白《もう》し、罪咎《ざいきゅう》を免れんと庶《ねが》う。王これを聞き已《おわ》りて、心大いに悦ばず、云々。時に一臣あり、すなわち王に白《もう》して言う、およそこの事は応《まさ》に二種あるべし。一はこれ鬼魅にして、二はこれ方術なり。細土を以て諸門の中に置き、人をして守衛せしめ往来する者を断つべし。もしこれ方術なれば、その跡自ずから現わる。設《も》し鬼魅の入るならば、必ずその跡無からん。人なれば兵もて除くべく、鬼なればまさに祝《いの》りて除くべしと。王その計を用い、法に依りてこれを為すに、四人の跡、門より入るを見る、云々。王勇士数百人を将《も》って、刀を空中に振るわしめ、三人の首を斬る。王に近きこと七尺の内に、刀の至らざる所あり。竜樹身を斂《おさ》め、王に依りて立つ。ここに於て始めて悟る、本の苦を為さんと欲して、徳を敗り身を※[#「さんずい+于」、第3水準1−86−49]辱《おじょく》せりと。すなわち自ら誓いて曰く、我もし脱るるを得て、この厄難を免るれば、まさに沙門に詣《いた》って出家の法を受くべしと。既に出て山に入り、一仏塔に至り、欲愛を捨離し、出家して道を為《おさ》む。九十日にして閻浮提のあらゆる経論を誦し、皆ことごとく通達す〉。それより竜宮に入って深奥の経典を得、大乗の祖師となり、大いに仏法を興したそうだ。隠行の香薬とは、支那で線香を焼《た》いて人事不省たらしめて盗みを行う者あるごとく、特異の香を放ち、守衛を不覚にして宮中に入ったのであろう。
 日本戒律宗の祖鑑真は唐より薬物多く将来し、失明後も能《よ》く嗅《か》いで真偽を別ち、火葬の節異香山に満ちた。元興寺《がんごうじ》の守印は学|法相《ほっそう》、倶舎《くしゃ》を兼ねた名僧で、不在中に来た客を鼻で聞き知った。勝尾寺の証如《しょうにょ》は過ぐる所の宅必ず異香を留め、臨終に香気あまねく薫じた。その他名僧名人に生前死後身より妙香を出した伝多きは、その人香道の嗜《たしな》み深く、その用意をし置いたらしい。木村重成ら決死の出陣に香で身を燻《くん》じた人多く、甚だしきは平定文《たいらのさだぶみ》容姿言語一時に冠絶し「人の妻娘|何《いか》に況《いわん》や宮仕へ人は、この人に物いはれざるはなくぞありける」(『今昔物語』)。しかるに本院の侍従にのみ思いを遂げず、その欠点を聞いて思い疎《うと》みなばやと思えど何一つの欠点を聞かず。因ってその不浄を捨てに行く筥《はこ》を奪い嘗《こころむ》るに、丁子《ちょうじ》の煮汁を小便、野老《ところ》に香を合せ大きな筆管を通して大便に擬しあったので、その用意の細かに感じ、いかでかこの人に会わずしてはやみなんと思い迷うて焦《こが》れ死んだと見ゆ。以て以前邦人が香の嗜み格別で、今日|雪隠《せっちん》へ往って手を洗わなんだり、朝起きて顔を洗わずコーヒーを口に含んで、歯垢《はくそ》を嗽《すす》ぎ落して飲んでしまう西洋人と、大違いたるを知るべし。
 ただし最《いと》古く香の知識の発達したはまずアジア大陸諸国で、支那の『神農本草』既に香剤を収めた事多く、『詩経』『離騒』に芳草しばしば見え、返魂《はんごん》招仙に名香を焼《た》く記事を絶えず。一七八一年ビルマに滅ぼされた旧帝国アラカンの盛時、国中に十二殿ありて、十二町に散在す。各町の知事毎年その町良家新産の女児を視《み》て最も美な者十二人を選び、殿中に養い歌舞を習わせ、十二歳の始めにこれを王宮に進め、旧制に従《よ》って試験を受く。まず娘どもを浴《ゆあみ》させ新鮮潔白な絹衣を着せ、高壇に上って早朝より日中まで立たしむると、熱国の強日に曝《さら》され汗が絹衣に徹《とお》る。一々それを新衣に更《か》えしめ、汗に沾《うるお》うた絹衣を収め
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