方の人が笑うと、竹篦返《しっぺいがえ》しに、汝らこれを塗らぬ故身体悪臭を放つと蔑せらるる例は毎々見聞した。それもそのはず、裸で居続くるにかかる物を塗らぬと毒虫に螫《さ》されやすく、気温が変るごとに感冒発熱するところ多い。かようの塗料を追々改良して種々の香剤を加え装飾の具と成したのが塗香で、諸宗教の威儀の具ともなったのだ。
ただし『大英百科全書』十一版一巻|塗油《アノインチング》の条に、諸宗教諸人種の儀式皆これを用うと書いたは誤謬で、わが邦にはかつてこれを行わず、仏教の修法《すほう》に香湯に浴する事は聞くが、油脂等を身に塗ったと聞かぬ。しかるに後世髪を結《ゆ》う風大いに発達して鬢附油起る。附け処は異なるが、その製は塗香と兄弟たるもので、その材料加薬に外国品多きより推すと、けだし外国の髪油と塗香より転成したらしい。追々束髪行われて鬢附油の用少なくなり、したがって昔のごとく種類も多からず、その品も大いに劣り行くを見て、当時欧州視察に来た商人輩に、物窮すれば通ずる理窟故、鬢附油に関する口伝秘訣等が失せ果てぬうち心得置き、かつは塗香多く用いる国々の実況を視察参照し、極めて上製高尚な塗香を作ってわが邦特に調香の美術あるを示すと同時に、至って廉価ながら豚や魚の脂に優る物をも製し売り込んで、昔取られた金を取り返したら如何《いかん》と勧め、同時にマレー人等のサロング(腰巻)を安く美麗に作って持ち込めと説いたが、孔子も時に逢わずでただ一人実行せなんだ。その後十年ばかりしてサロングを積み出す人ありと聞いたが、塗香の事は今に誰も気が付かぬか手を出した人あるを聞かぬ。
民俗 (3)[#「(3)」は縦中横]
さて無用の用という事ありて媚薬にも種々あり。吉丁虫を支那、玉虫や鴛《おしどり》の思羽《おもいば》を日本の婦女が身に佩《お》びたり、鏡奩《かがみばこ》に入れたりするも、上に述べた諸動植物も媚薬で、甚だしきは劇性人を殺す事ヒッポマネスごときもある。いずれも美しい虫を佩びる人の容が艶《つや》多くなり、根相の物を食えば勢を強くすてふ同感説に基づいて大いに行われたが、追々経験して表面ばかり相似た物同志の間に必ずしも何の縁も同感もないと分った今日、滑稽がかって来たかかる媚薬は未開野蛮民にあらずんば行われぬ。しかるに芳香を主分とする媚薬は実際人を興奮せしむる力あれば、催春薬として利《き》かぬまでも、興奮剤として適宜これを用うれば和悦享楽の効は必ずある。全体光線や音響と異なり、香と味は数で精測しがたいから、今日の科学で十分に解らず。したがって欧米人は嗅味の二覚は視聴の二覚より劣等だとか、香と味は絵や彫刻や音楽ほどあまねく衆人に示す事がならぬから美術とならぬとかいうが、それはわが邦の香道や茶道を知らぬ者の言で、一向話にならぬ。また動物のあるもの(例せば犬)は嗅覚甚だ精しく、人間も蛮族や不具で他の諸覚を亡《うしの》うた者が鼻で多く事を弁ずるから、鼻の鈍い者ほど上等民族だなどいう。これはある動物(例せば海狸《ビーヴァー》)は、平等制ゆえ君主政治の民が上等だというに等しく、それと同時にある動物(例せば蜂蟻)は君主制ゆえ平等政治の民が上等だといい得るを忘れた論じゃ。竜樹菩薩は寛平中藤原|佐世《すけよ》撰『日本国現在書目録』に、『竜樹菩薩和香方』一巻と出で、香道の祖と尊ばる。それもそのはずこの大士ほど香より大騒動を生じ大感化を受けた者はない。『法苑珠林』五三に竜樹の成立《なりたち》を述べて、〈南天竺国、梵志の種の大豪貴の家に出づ、云々。弱冠にして名を馳せ、擅《ほしいま》まに諸国を歩み、天文地理、星緯|図讖《としん》、および余の道術、綜練せざるは無し。友三人あり、天姿奇秀なり。相《あい》与《とも》に議して曰く、天下の理義は、神明を開悟し、幽旨を洞発し、智慧を増長す。かくのごときの事は、われら悉く達せり、更に何の方を以て、自ら娯楽せんかと。またこの言をなす。世間ただ好みて情を縦《はな》ち欲を極むるを追い求むるあり、最もこれ一生上妙の快楽なり。宜しく共に隠身の薬を求むべし。事もしかく果たさば、この願い必ず就《な》らん。咸《みな》言う、善哉、この言甚だ快しと。すなわち術処に至り、隠身の法を求む。術師念いて曰く、この四梵志は、才智高遠にして大※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]慢を生じ、群生を草芥とするも、今は術の故を以て、屈辱して我に就く。然れどもこの人|輩《ら》、研究博達し、知らざる所は唯だこの賤術のみ。もしその方を授くればすなわち永く棄てられん。且《しばら》くかの薬を与え、これを知らざらしめん。薬尽きなば必ず来たって、師資久しかるべしと。すなわち便《ただ》ちに各《おのおの》に青薬一丸を授け、而してこれに告げて曰く、汝この薬を持ち、水を以てこれを磨《
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