の弊を論じた者多ければ、いわゆる薬なくして常に中医を得るで、なくて済む人は用いぬに限る。
東洋にヒッポマネスの話ありやとの問いに応じ調べると、蒙古人大急用の節、十日も火食せずに乗り続く。その間ただ乗馬の静脈を開き迸《ほとばし》り出づる血を口中に受け、飲み足りて血を止むるのみ、他の飲食なしに乗り続け得(ユールの『マルコ・ポロ』初版一巻二二九頁)。こんな奇効ある故か、道家に尹喜《いんき》穀を避けて三日一たび米粥を食い白馬血を啜《すす》り(『弁正論』二)、黄神甘露を飲み※[#「馬+巨」、424−15]※[#「馬+墟のつくり」、424−15]《きょきょ》の脯《ほじし》を食うという。これは牡馬が牝騾に生ませた子で、牡馬と牝※[#「馬+墟のつくり」、424−15]《ひんきょ》の間《あい》の子《こ》たる※[#「馬+夬」、第4水準2−92−81]※[#「馬+是」、第4水準2−92−94]《けってい》(上出の通り燕王が蘇秦に食わせた物)と等しく至極の美味と見える。これらのほかに霊薬を馬より取る事道書に見えぬようだ。
一昨年(大正五年)十二月の『風俗』に、林若樹君が「不思議な薬品」てふ一文を出し、本邦現存最古の医書|丹波《たんば》康頼の『医心方』から引き陳《つら》ねた奇薬の名の内に、馬乳、白馬茎、狐と狗の陰茎あり。四十年ほど前予が本草学を修めた頃は、京阪から和歌山田辺(想うに全国到る処)の生薬屋に、馬、牛、猴、獺《うそ》、狐、狸、狗、鹿、鯨、また殊に膃肭獣《おっとせい》のタケリ、すなわち牡具《ぼぐ》を明礬《みょうばん》で煮固めて防腐し乾したのを売るを別段不思議と思わず。予が有名な漢方医家の本草品彙を譲り受けて保存せる中に、今も多少存し、製薬学上の参考要品に相違なければ、そのうち携えて上京し東京帝大へ献納せんと思う。当時大阪の大|薬肆《やくし》の番頭どもに聞いたは、かかる品にはそれぞれ特異の香気ありてこれを粉にして専ら香類や鬢附油に入れた由で、媚薬と言えば奇異に聞えるが、取りも直さず芳香性の興奮剤で、牡動物が牝の心を惹《ひ》くために身から出だす麝香《じゃこう》、霊猫《れいびょう》香、海狸《かいり》香、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》香等を、今も半開未開の民が強勢の媚薬と尊重し、欧米人も興奮剤として香飾にしばしば入れるに異ならず。およそ媚薬はもと医術と魔法が分立せぬ時、半ば学理半ば迷想に由りて盛んに行われたもので(今日とてもこの類の物が薬餌《やくじ》香飾等と混じて盛んに行わるるは、内外新紙の広告で知れる)、形状作用の相似た物は相互その力を相及ぼすてふ同感の見に基づく。
国文の典型たる『土佐日記』に、筆者貫之朝臣の一行が土佐を出てより海上の斎忌《タブー》厳しく慎みおりしに、日数経てやっと室津《むろのつ》に着き、「女これかれ浴《ゆあ》みなどせむとて、あたりの宜しき所に下りて往く云々、何の葦影に託《ことづ》けて、ほやのつまのいずし、すしあはびをぞ、心にもあらぬ脛《はぎ》にあげて見せける」。この文を従前難解としたが、谷川士清《たにかわことすが》の『鋸屑譚《おがくずばなし》』に始めてこれを釈《と》いた。ホヤは仙台等の海に多く、科学上魚類に近い物ながら、外見|海参《なまこ》に酷似す。イズシは貽貝《いがい》の鮓《すし》で、南部の方言ヒメガイ(『松屋筆記』百五巻)、またニタガイ(『本草啓蒙』四二)、漢名東海夫人、皆その形に因った名で、鰒《あわび》を同様に見立つる事、喜多村信節《きたむらのぶよ》の『※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《いんてい》雑録』にも見える。次に岸本由豆流《きしもとゆずる》が件《くだん》の文の「何の葦影に託けて」の何は河の誤写と発明したので、いよいよ意味が明らかになった。全く貫之朝臣が男もすなる日記てふ物を女もして見せるとて、始終女の心になりて可笑味《おかしみ》を叙《の》べたもの故、ここも水|渉《わた》るため脛《はぎ》高く掲げしかば、心にもあらで、ホヤの妻ともいうべき貽貝や鰒様の姿を、葦の影の間に映し見せたてふ、女相応の滑稽と判った(『しりうこと』第五)。また昔子を欲する邦人が渇望した肉※[#「くさかんむり/從」、第4水準2−86−64]蓉《にくじゅうよう》は、『五雑俎』十一に、群馬の〈精滴地に入りて生ず、皮松鱗のごとし、その形柔潤肉のごとし、云々、この物一たび陰気を得ば、いよいよ壮盛加わる、これを採り薬に入れ、あるいは粥を作りこれを啖えば、人をして子あらしむるという〉、また健補の功それよりも百倍すてふ鎖陽は、野馬あるいは蛟竜遺精より生じ、同前の伝説ある由『本草綱目』に出《い》づ。肉※[#「くさかんむり/從」、第4水準2−86−64]蓉は邦産なく従来富士日光諸山のサムタケを当て来り、金
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