、この馬が天才なるを見出し数年間その傍に眠ってまで教練しただけが取り処でしょうと言ったそうだ。ミ師は牧人が群羊を一縦列にして追い入るに二十疋過ぐるごとに一吠《ひとほ》えする犬あり、かたがた動物に全く数を知るものなしと信ぜぬが、「考える馬」などは馬が計算を能くする証拠とならず、むしろ一種の眼眩《めくら》ましだと論じた。世間に尤《いと》不思議なようで実はこの通り詰まらぬ事が多い。予十三、四の頃中学校にありて僚友が血を吐くまで勉むるを見て、そんなにして一番になったところで天下が取れるでなし、われはただ落第せず無事に卒業して見すべしと公言したが果してそうだった。而して試験ごとに何の課目も一番早く答紙を出して退場し虫を採って自適するを見て勉強せずに落ちぬは不可解と一同呆れた。これも実は観察力が強かったからで、十歳の時『史記』の講義を聴くに田忌《でんき》千金を賭け逐射した時孫子忌に教えてその下駟《かし》と敵の上駟と与《あわ》さしめ無論一度負ける、次にその上駟とかの中駟と、その中駟とかの下駟と競争させて二度ながら勝って千金を得せしめたそうだ。由って思案の末課目が十あるうち作文と講義は得手物《えてもの》で満点と極まっており、総点数の五分一得れば落第せぬ定め故、他の八課の答えは直ちに白紙を差し出し件《くだん》の二課は速くやって退《の》け十分安心して遊び廻った。その時一、二番だった人の成り行きを見るに果して国を取ってもおらぬから、われながら先見の明に感じ入り当時虫を採って自適したのを想い出すだけでも命が延益す。教育家ども何と評する。
欧州古来もっとも高名な演芸馬《しばいうま》は沙翁と同時のスコットランド人バンクスに使われたモロッコだろう。この馬また蹄で地を敲きて嚢中の銭や骰子目《さいのめ》を数え中《あ》て、主人が名ざす人に物を渡し観客中からもっとも女好きな紳士を選び出し、後足二本で立ったり跳ねたり踊ったり、一六〇〇年バンクスを載せてロンドンのセントポール伽藍の屋頂を越えたという。これは多分|桟敷《さじき》から階子《はしご》乗りをしたんだろう。その頃の笑話にその時群集仰ぎ視る者夥し。ある人堂内にありしに僕走り来て出で見よと勧めると、下にかく多く驢あるを見得るからわざわざ足を運んで上の馬一匹見るに及ばずと即答したと。驢は愚人の義だ。バンクス仏国に渡り人気を集めんとてこの馬は鬼が化けたところと言い触らしたが、衆これを魔の使と罵り焼き殺さんとしたところ、早速の頓智《とんち》で馬に群衆中より帽に十字を帯びた一人を選んで低頭|跪拝《きはい》せしめ、魔使ならこんな真似をせぬはずと説いて免れたという、その前後馬が芸をして魔物と疑われ火刑を受けた例少なからぬ。騎馬で愛宕の石段登るを日本で褒《ほ》むるが、外国には豪い奴もあって、一六八〇年一人白馬に騎り、ヴェニースの埠頭から聖《サン》マルコ塔の頂まで引っ張った六百フィート長い綱を走り登る。半途で駐《とま》って右手に持った鎗を下げ左手で旗を三度振って宮廷を礼し、また走り登って鐘塔に入り徒歩で出で最高の絶頂に上り、金の天使像に坐って旗を振る事数回、鐘塔に還って騎馬し復《ふたた》び綱を走り降った(ホーンの『机上書《テーブルブック》』五四〇頁)。プリニウスはシバリス城の軍馬|毎《いつ》も音楽に伴れて踊ったといい、唐の玄宗は舞馬四百を左右に分ち※[#「糸+肅」、第3水準1−90−22]衣玉飾して美少年輩の奏楽に応じて演芸させた由。その他馬が楽を好んで舞いまた香を愛する事しばしば見ゆ(バートンかつてアラブ馬が女人に接したまま身を清めぬ主人を拒んで載せぬを見たという)。仏教の八部衆天竜|夜叉《やしゃ》の次に、乾闥婆《カンダールヴァ》あり最末位に緊那羅《きんなら》あり、緊那羅(歌楽神また音楽天)は美声で、その男は馬首人身善く歌い、女端正好く舞い多く乾闥婆の妻たり。香山の大樹緊那羅王瑠璃琴を奏すれば、一切の大衆仏前をも憚《はばか》らず、覚えず起ちて舞い小児同然だったという。乾闥婆は食香また尊香と訳し天の楽神で宝山に住み香を守る。天神楽を作《な》さんと欲せば、この神の相好たちまち反応変化し自ら気付いて天に上り奏楽す。また能く幻術《てじな》を以て空中に乾闥婆城(蜃気楼)を現ず。梵教の伝に、この神|帝釈《インドラ》と財神《クヴェラ》に侍属し水と雲の精アプサラスを妻とし、女を好み婦女を教え婚姻を司り日神の馬を使う。ヒンズ法に男女法式に拠らず即座合意の結婚を乾闥婆と称え、ヒマラヤ地方の諸王の妻で、后より下、妾より上なるをもかく呼ぶ。乾闥婆が馬や驢に基づいて作られた神たるはグベルナチス伯の『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』に詳論あり。好んで妓楽を観聴し戒緩だった者この楽神に転生す、布施の果報で諸天同様楽に暮すと仏説じゃ。吾輩随分田舎芸妓に
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