百年間人手を離れて家馬の種が純乎たる野馬となったのだが、それすらガウチョス人上述の法を以て能く擾しおわる。インド等で野象を馴らすも似いるがそれは徐々|出来《でか》すのだから馬擾しほどに眼を驚かさぬ。また奇な事は馬一たび駭《おどろ》けば諸他の心性まるで喪われたちまち狂奔して石壁に打付《ぶつ》かるを辞せず、他の獣も慌て過ぎて失心自暴する例あれど馬ほど劇しいものなし。しかし真面目な時の馬は確かに情款濃く、撫愛されて悦び他馬の寵遇を嫉み同類遊戯するを好み勇んで狩場に働く。虚栄の念また盛んで馬具で美麗を誇る、故にスペインで不従順な馬を懲らすに荘厳なる頭飾と鈴を取り上げ他の馬に徙《うつ》し付けると。支那で馬に因《ちな》んで驚駭《きょうがい》と書き『大毘盧遮那加持経《だいびるしゃなかじきょう》』に馬心は一切処に驚怖思念すとあるなど驚き他獣の比にあらざるに由る。
 馬の記憶勝れたる事、アビシニアの馬途中で騎手と離るると必ず昨夜|駐《とま》った処へ還るとベーカーの『ゼ・ナイル・トリビュタリース・オヴ・アビシニア』に見えるが、支那でも斉の桓公孤竹国を伐《う》ち春往き冬|反《かえ》るとて道を失うた時管仲老馬を放ちて随い行きついに道を得たという(『韓非』説林上)。エッジウッドがダーウィンに与えた書簡にその小馬《ポニー》を伴れてロンドンに住む事八年の後地方の旧宅へ帰るに、小馬その道を忘れず直ちに本《もと》住んだ厩に到ったと見ゆ。小馬は馬の矮小なもので三十二インチより五十六インチ高きもので自ずから種別多し。紀州などでは見た事なきも土佐駒、琉球駒、薩州種子島の手馬など日本産の小馬だ。支那にも果下馬双脊馬など立ちて高さ三尺を踰《こ》えぬものありその駿者《よきもの》に両脊骨ありという。『大清一統志』一八一に甘粛《かんしゅく》の馬踪嶺は峻《けわ》しくて道通ぜなんだが、馬をこの山に失い蹟《あと》を追うてたちまち※[#「鶩」の「鳥」に代えて「女」、第4水準2−5−63]州《むしゅう》に達してより道が開けたと出《い》づ。『元亨釈書《げんこうしゃくしょ》』に藤原|伊勢人《いせひと》勝地を得て観音を安置せんと、貴船神《きぶねじん》の夢告により白馬に鞍置き童を乗せ馬の行くに任すと山中|茅草《ちがや》の上に駐《とま》る、その地へ寺を立てたのが鞍馬寺だとある。
 馬に憎悪《ぞうお》の念強き事、バートンの『メジナおよびメッカ巡礼記』十五章にメジナで至って困ったのは毎夜一度馬が放れ暴れたので、たとえば一老馬が潜かにその絆《つな》がれいる※[#「革+巴」、394−6]《はなかわ》を滑らしはずし、長尾驢《カンガルー》様に跳んで予《かね》て私怨ある馬に尋ね到り、両馬暫く頭を相触れ鼻息荒くなり咆※[#「口+「皐」の「白」にかえて「自」、第4水準2−4−33]《ほえまわ》り蹴り合う。その時第三の馬また脱け出で首尾を揚げ衝き当り廻る、それから衆馬狂奔して※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]《け》り合い齧《か》み合い打つ叫ぶ大乱戦となったと記す。かく憎しみと怨《うら》み強き故か馬が人のために復讐した話もある(プリニウス八巻六四章、『淵鑑類函』四三三、王成の馬、『奇異雑談』下、江州《ごうしゅう》下甲賀名馬の事)。『閑田耕筆《かんでんこうひつ》』三に、摂州高槻辺の六歳の男児馬を追って城下に出て帰るに、雨劇しく川|漲《みなぎ》りて詮術《せんすべ》なきところに、その馬その児を銜《くわ》えて川を渡し、自ら先導して闇夜を無難に連れ帰ったので、まず馬を饗し翌日餅を隣家に配ったとある。酒を忘れたものか書いていない。ちょっと啌《うそ》のような話だが、ロメーンズの『|動物の智慧《アニマルインテリジェンス》』に米国のクレイポール教授が『ネーチュール』雑誌へ通信した話を出す。その友人トロント近き農家に働くが、主人の妻の持ち馬全く免役で紳士生活をさせられているものあり、数年前この女橋を踏みはずして深水へ落ち込んだのを、近い野で草食いいた馬が後《おく》れず走り行きて銜え揚げて人助の到るを俟《ま》った御礼にかくのごとしと。それから随分怪しいが馬が自殺や殉死をした話も少なからぬ。明の鍾同太子の事で景帝を諫《いさ》め杖殺《じょうさつ》さる。〈同の上疏するや、馬を策《むちう》ち出《い》づ、馬地に伏して起たず、同咆して曰く、われ死を畏れず、爾《なんじ》奚《なに》する者ぞ、馬なお盤辟《ばんぺき》再四して行く、同死して馬長号数声してまた死す〉(『大清一統志』一九九)。プリニウスいわく馬主人を喪えば流涕するあり、ニコメデス王殺された時その馬絶食自滅し、アンチオクス王殺されて敵人王の馬を取り騎りて凱旋せしにその馬|瞋《いか》りて断崖より身を投げ落し騎った者とともに死んだと。
 ロメーンズはその友の持ち馬性悪く、毛を梳《す》かるる際
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