》その状《かたち》馬のごとし、四節毛あり〉、『事物|紺珠《かんじゅ》』に〈旄馬足四節ばかり、毛垂る、南海外に出づ〉。今強いてかかる物を求むれば、キャングは極寒の高地、海抜一万四千フィートまで棲む故、旄牛《ヤク》と等しく厚い茸毛《じょうもう》を被るから、正《まさ》しく旄馬と呼んで差しつかえぬ。
 次に花驢《しまうま》にゼブラとドーとクワッガとグレヴィス・ゼブラの四種あったが、ゼブラは絶えなんとしおり、クワッガは絶え果て、ドーも本種は絶えて、変種だけ残る。これら皆アフリカ産で、虎様の条ありて美し、『山海経』に、〈※[#「木+丑」、第3水準1−85−51]陽《ちゅうよう》の山、獣あり、その状馬のごとくして白首、その文《もん》虎のごとくして赤尾、その音|謡《うた》うがごとし、その名|鹿蜀《ろくしょく》という〉と出で、その図すこぶる花驢に類す。呉任臣の注に、〈『駢雅《べんが》』曰く鹿蜀虎文馬なり云々、崇禎《すうてい》時、鹿蜀|※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]南《びんなん》に見る、崇徳呉爾□詩を作りこれを紀す〉と。熊楠|按《あん》ずるに、チゲタイ穉《わか》い時、虎条あること花驢に同じければ、拠って以て鹿蜀を作り出したものか。『駢雅』など後世の書に出たは、多少アフリカの花驢を見聞して書いたのだろう。
 支那に限らず日本にも花驢が渡った事ある。かつて一七四六年版、アストレイの『新編航海紀行全書《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オブ・ヴォエージス・エンド・トラヴェルス》』三の三七八頁にナエンドルフいわく、アビシニアの大使、花驢一疋をバダヴィア総督に贈り、総督これを日本皇師に贈ると、帝返礼として銀一万両と夜着三十領を商会に賜うた。合算して十六万クラウンに当る。何と仰天だろうとあるを読んで、そんな事をもしや邦書に載せあるかと蚤取眼《のみとりまなこ》で数年捜すと、近頃やっと『古今要覧稿』五〇九に、『本朝食鑑』を引いて、この事を記しあるを発見した。『食鑑』は予蔵本あれど、田辺にないから『要覧稿』に引いたまま写そう。いわく、〈近代|阿蘭陀《オランダ》の献る遍体黒白虎斑の馬あり、馬職に命じてこれを牧養せしむ、馬職これに乗りこれに載す、ともに尋常の馬に及ばず、ただ美色と称《い》うのみ、あるいは曰く騾《ら》の族なり云々〉と。『食鑑』は元禄八年人見元徳撰す。因って花驢は、少なくとも今より
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