だ(チャムバースの『ブック・オブ・デイス』一巻一二九頁)。『嬉遊笑覧』に、『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち我たつみちに横《よこた》へば、やまなしひめにありと伝へん」というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は、「この路に錦|斑《まだ》らの虫あらば、山立姫に告《い》ひて取らせん」。『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に、この村に蛇除《へびよけ》伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには、伊右衛門/\と唱えて入らば、毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き時は、三里も五里も、守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり。さてかの歌は、その守りなるべし。あくまたちは赤斑なるべく、山なし姫は、山立ひめなるべし。野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮《まむし》を好む由なり。予在米の頃、ペンシルヴァニア州の何処《どこ》かに、蛇多きを平らげんとて、欧州より野猪を多く輸入し、放ちし事ありし。右の歌、蛇を悪魔とせしは、耶蘇《ヤソ》教説に同じ。梨《ありのみ》と言い掛けた山梨姫とは、野猪が山梨を嗜《この》むにや、識者の教えを竢《ま》つ。
三河国|池鯉鮒《ちりふ》大明神の守符、蛇の害を避く。その氏子の住所は蛇なく、他の神の氏子の住所は、わずかに径《こみち》を隔つも蛇棲む。たといその境|雑《まじ》るもかくのごとし(『甲子夜話』続篇八〇)。和歌山近在、矢宮より出す守符は妙に蝮に利《き》く。蝮を見付けてこれを抛《な》げ付くると、麻酔せしようで動く能わずというが、予|尋常《なみ》の紙を畳んで抛げ付けても、暫くは動かなんだ。世に蝮指というは、指を緊張して伸ばし、先端の第一関節のみ折れ曲がりて、蛇の鎌頸状を成すので、五指ことごとくそうなるを苦手《にがて》といい、蛇その人を見れば怖れて動かず、自在に捕わるそうだ(『郷土研究』四の五〇二)。予の現住地の俗信に、蝮指の爪は横に広く、癪《しゃく》を抑うるに効あり、その人手が利くという。拙妻は左手のみ蝮指だから、亭主|勝《まさ》りの左|利《きき》じゃなかろうかと案じたが、実は一滴も戴《いただ》けませんから安心しやした。それからまた、苦手の人蟹を掴み、少時経つとその甲と手足と分れてしまうという、『仏説穣麌梨童女経』は、蛇を死活せしむる真言を説いた物だ。
蛇で占う事、『淵鑑類函』四三九に、『詩経類考』を引いて、江西の人、菜花蛇てふ緑色の蛇を捕え、その蟠《わだかま》る形を種々の卦《け》と名づけ、禍福を判断し俚俗これを信ずと出《い》づ。『酉陽雑俎』に、蛇|交《つる》むを見る人は三年内に死す。ハツリットの『|諸信および民俗《フェース・エンド・フォークロール》』二に、古ローマ人は蛇の動作を見て卜《うらの》うた。ロッス説に、水蛇と陸上の蛇の闘いは、人民の不幸を予示すと。アツボットいわく、マセドニア人、首途《かどで》に蛇を見れば不吉として引き還すと。ラームグハリット言う、ニルカンス鳥は、女神シタージの使物として、インドに尊ばる帽蛇、蛙を啣《くわ》え、頭にこの鳥を載せて川を渡るを見る人は、翌年必ず国王となると。南方先生裸で寝て居る所へ、禁酒家の娘が百万円持参で、押し付け娵入《よめい》りに推し懸くるところを見た人はという事ほど、さようにあり得べからざる事である。
ハツリット説に、一八六九年アルゼリアのコンスタンチナ市裁判所で、夫が妻の貞操を疑うて、その鼻と上唇を截《き》った裁判あった時、妻の母いわく、この男は悋気《りんき》甚だしいから、妾それを止めんとて、高名な道士に蛇の頭を麻の葉に裹《つつ》んでもらい、婿の頭巾の襞《ひだ》の中へ入れるつもりでしたと言い、傍聴人に向って、何とこの法が一番能く利くでありませぬかと問うと、たちまちアラブ人数名頭巾を脱いで、銘々そうともそうとも、吾輩も悋気が豪《えら》いからこの通りと言って、件《くだん》の禁厭品《まじないもの》を取り出し示したが、陪席の土人官員一名、また判官の問いをも俟《ま》たず、僕も妻について焼かぬ間もなしだから、この通り蛇頭を戴きおります、蛇頭は男子を強力、女人を貞実ならしむる物ですと述べたそうだ。ブラックの『俚薬方篇《フォーク・メジシン》』五九頁に、英国サセックスの俗頸|腫《は》れた時、蛇を頸の上に挽《ひ》きずり、罎《びん》に封じ固く栓して埋めると、蛇腐るに随って腫れ減ずと見ゆ。これは英国で、蝸牛《かたつむり》や牛肉や林檎《りんご》に疣《いぼ》を移し、わが邦《くに》でも、鳥居や蚊子木葉《いすのきのは》に疣を伝え去るごとく、頸の腫れを蛇に移すのだ。紀伊、伊勢等で蛇の屍を丁寧に埋め、線香供え日参すれば、歯痛癒ると信じ、予小時毎度頼まれて蛇を殺した。中世スペインの天主教名僧、ロムアルドの遺骸を、分
前へ
次へ
全35ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング