配供養して功徳とせんと、熱心の余り、上人《しょうにん》を殺さんとしたごとし。今となっては仔細判らざれど、初めは蛇の屍で歯を撫《な》で、痛みを移して埋めたであろう。三河で病人久しく一の場所で臥せば、青大将に血を吸わるという(『郷土研究』三の一一八)。
『英国人類学会雑誌』十巻三〇九頁にいう、ソロモン島では、人の余食を神池の魚や蛇に食わせば、その人死すというと。インドのパンジャブで伝うるは、孕婦《ようふ》の影、蛇に懸れば、その蛇盲となると(『パンジャブ随筆問答雑誌』一)。また、コルベル・ロンギシムスは、医神エスクラピウスの使で、その到る処万病を除くとて、ローマの軍隊遠征にこの蛇数|疋《ひき》を伴れ行いた。米人リーランドの『俗伝に残った、ユトラスカとローマの旧習』(一八九二年ロンドン版)にいわく、「イタリアのロマニヤ地方の民、邪視と妖巫《ようふ》を避け、奇幸を迎うるため壁に蛇を画く、ただし尾を上に頭を下に、身体諸部混雑して結び居るを要す。また二、三の蛇、互いに纏うた処を編み物にして戸口に掲ぐる。ペルシアで絨氈《じゅうたん》の紋の条を、なるべく込み入って相|絡《から》んだ画にするも、邪視を禦《ふせ》ぐためだ」とあって、長々その理由を演《の》べ居る。すべてかくのごとく小むずかしく縺《もつ》れ絡んだ蛇の画を、護符として諸多の災害を避くるは、イタリアに限らず、例せば一切経中に見る火難|除《よ》けの符画も、熟《よく》視《み》るとやはり蛇の画だ。日本でも吾輩幼時、出雲の竜蛇、その他蛇の画符を悪魔除けとして、門戸に貼《は》ったのが多かった。リーランドいう、妖巫や邪視する人が、かく縺れ絡んだ物を見ると、線の始めから終りまで、細《くわ》しく視届けるその間に、邪念も邪視力も大いに弱り減ずる故、災難を起し得ぬ。ちょうど疳持《かんもち》の小児が、むつかしくぐずり掛かるところへ、迷宮様に道筋を引き廻した図や、縺れ解けぬ片糸を手渡せば、一心不乱にその方をほどきに懸る内、最初思い立ちいた小理窟は、忘れてしまうがごとしと。ここにいえる妖巫、英語でウィッチ、伊語でストレガ、女人殊に老女が、左道を修め鬼魅に事《つか》え、悪念を以て人畜を害する者で、中には世襲の妖巫輩出する部落も家族もある。而《しか》してその妖巫の眼力が邪視だ。本邦にも、飛騨《ひだ》の牛蒡《ごぼう》種てふ家筋あり、その男女が悪意もて睨《にら》むと、人は申すに及ばず菜大根すら萎《しぼ》む。他家へ牛蒡種の女が縁付いて、夫を睥《にら》むとたちまち病むから、閉口してその妻の尻に敷かれ続くというが、てっきり西洋の妖巫に当る。
 邪視英語でイヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予その事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻《じゃけい》、『増一阿含』に悪眼、『僧護経』『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品』二十八に出でおり、また一番好いようでもあり、柳田氏その他も用いられ居るから、手前味噌ながら邪視と定め置く。もっとも本統の邪視のほかにインドでナザールというのがあって、悪念を以てせず、何の気もなく、もしくは賞讃して人や物を眺めても、眺められた者が害を受けるので、予これを視害と訳し置いたが、これは経文に因って見毒と極《き》めるがよかろう。
 南欧や北アフリカからペルシア、インドに、今もこの迷信甚だ行われ、悪《にく》み蔑《みさぐ》るどころか賞めてなりとも、人の顔を見ると非常に機嫌を損じ、時に大騒動に及ぶ事あり。故に邪視を惧るる者、ことさらに悪衣を着、顔を穢《よご》し痣《あざ》を作りなどして、なるべく人に注視されぬようにし、あるいは男女の陰像を佩《お》びて、まず前方の眼力をその方に注ぎ弱らしむ。支那の古塚に、猥褻《わいせつ》の像を蔵《おさ》めありたり。本邦で書箱|鎧櫃《よろいびつ》等に、春画《まくらえ》を一冊ずつ入れて、災難除けとしたなども、とどの詰まりはこの意に基づくであろう。アイルランドには、古建築殊に寺院の前に、陰を露わせる女の像を立てたるものあり、邪視の者に強く睨まるれば火災等起る。しかるにその人の眼、第一に女陰の方へ惹《ひ》かれて、邪力幾分か減散すれば、次に寺院を睥んでも、大事を起さぬ。すなわち女陰が避雷柱《かみなりよけ》のような役目を務むるのじゃと。かの国人で、只今大英博物館人類学部長たるリード男の直話だった。わが邦で、拇指を食指と中指の間に挟《はさ》み出し人に示すは、汝好色なりという意という事だが、イタリア人などにそれを見せると、火のごとくなって怒る。それから殺人に及んだ例もある。自分を邪視力ある者と見定め、その害を避けんとて、陰相を作り示すと心得て怒るのだ。仏経に鴦
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