ありだ。蟾蜍《ひきがえる》など蛙類に進退|究《きわ》まる時頭を以て敵を押し退けんとする性あり。コープ博士だったかかくてこの輩の頭に追々角が生《は》える筈といったと覚える。支那の書に角ある蟾蜍の話あるは虚構とするも、予輩しばしば睹《み》た南米産の大蛙ケラトリフス・コルナタは両眼の上に角二つある。それ羔《こう》犢《とく》角なきに衝《つ》く真似し歯もなき蝮子が咬まんとするは角あり牙ある親の性を伝えたに相違ないが、件《くだん》のコープの説に拠ると、いずれも最初に衝こう咬もうという一念から牛羊の始祖は角、蝮の始祖は牙を生じたのだ。ブラウンの『俗説弁惑《プセウドドキシア》』三巻十六章にヘロドテ等昔の学者は、蝮子母の腹を破って生まる。これ交会の後雌蝮その雄を噛み殺す故、その子父の復仇に母の腹を破るのだと信じた。かく蝮は父殺しを悪《にく》むもの故ローマ人は父殺した人を蝮とともに嚢《ふくろ》に容れて水に投げ込み誅したと出《い》づ。ただし天主教のテクラ尊者は蛇坑に投げられ、英国中古の物語に回主がサー・ベヴィス・オブ・ハムプタウンを竜の牢に入れたなどいう事あれば、ローマ人のほかに蛇で人を刑した例は西洋に少なからぬじゃ。東洋では『通鑑《つがん》』に後漢の高祖が毒蛇を集めた水中に罪人を投じ水獄と名づけた。また仏経地獄の呵責を述ぶる内に罪人蛇に咬まるる例多きは、インドにも実際蛇刑があったに基づくであろう。わが邦にそんな実例のあった由を聞かねど、加賀騒動の講談に大槻蔵人一味の老女竹尾が彼輩姦謀|露《あら》われた時蛇責めに逢うたとあるは多分虚譚であろう。大水の時蛇多く屋根に集まり、わずかに取り縋《すが》りいる婦女や児輩が驚き怖れて手を放ち溺死する事しばしばあったと聞く。
 毒蛇が窘《くるし》められた時思い切って自分の身を咬んで絶命するという事しばしば聞いたが、毒蛇を酒精に浸すと困《くるし》んで七転八倒し、怒って自分の体に咬み付いたまま死ぬ事あり、また火を以て蠍《かつ》を取り囲むにその毒尾の尖《さき》を曲げて脊を衝いて死する事もあるが、これらは狂人が自身を咬むと等しく、決して企ててする自殺でなくまた毒分が自身を害するでもないから、ただ自殺と見えるばかりだ。朝鮮にある沖縄人から前日報ぜられたは、以前ハブ蛇多き山を焼くとかように自身を咬んだまま死んだハブばかり間《まま》見当った由。仏が寺門屋下に鴿《はと》蛇猪を画いて貪《どん》瞋《しん》痴《ち》を表せよと教え(『根本説一切有部毘奈耶』三四)、その他蛇を瞋恚《しんい》の標識とせる事多きは、右の擬自殺の体を見たるがその主なる一因だろう、古インド人も蛇自殺する事ありと信じたと見える。たとえば『弥沙塞五分律《みしゃそくごぶんりつ》』に舎利弗《しゃりほつ》風病に罹《かか》り呵梨勒果《かりこくか》一を牀脚辺に著《つ》けたまま忘れ置いて出た。瞿伽離《くがり》見付けて諸比丘に向い、世尊|毎《いつ》も舎利弗は欲少なく足るを知ると讃むるが我らの手に入らぬこの珍物を蓄うるは世尊の言と違うと言った。舎利弗聞いてその果《み》を棄てた。諸比丘それは大徳病気の療治に蓄えたのだから棄つるなかれと言うと、舎利弗われこの少しの物を持ったばかりに梵行人をして我を怪しましめたは遺憾なり、捨てた物は復《ふたた》び取れぬと答えた。仏|言《のたま》わく、舎利弗は一度思い立ったら五分でも後へ退《ひ》かぬ気質だ。過去世にもまたその通りだった。過去世一黒蛇あり、一犢子を螫《さ》した後穴に退いた。呪師羊の角もて呪したがなかなか出で来ぬから、更に犢子の前に火を燃して呪するとその火蜂と化《な》って蛇穴に入った黒蛇蜂に螫され痛みに堪えず、穴を出でしを羊角で抄《すく》うて呪師の前に置いた。呪師蛇に向い、汝かの犢を舐《ねぶ》って毒を取り去るか、それがいやならこの火に投身せよと言うと蛇答えて、彼この毒を吐いた上は還《また》これを収めず、たとい死ぬともこの意《こころ》を翻さぬと言いおわって毒を収めず自ら火に投じて死んだが舎利弗に転生《うまれかわ》った。死苦に臨むもなお一旦吐いた毒を収《とりい》れず、いわんや今更に棄つるところの薬を収めんやと。『十誦律毘尼序《じゅうじゅりつびにじょ》』にこの譚の異伝あり。大要を挙げんに、舎婆提《しゃばてい》の一居士諸僧を請《しょう》ぜしに舎利弗上座たり。仏の法として比丘の食後今日は飲食美味に飽満たりや否やと問う定めだったので、僧ども帰りて後仏が一子|羅喉羅《らごら》その時|沙弥《しゃみ》(小僧)たりしにかく問うに得た者は足り得ざる者は不足だったと答えた。仔細を尋ぬるに上座中座の諸僧は美食に飽きたが、下座と沙弥とは古飯と胡麻滓《ごまかす》を菜に合せて煮た麁食《そしょく》のみくれたので痩《や》せ弱ったという。仏舎利弗は怪《け》しからぬ不浄食をしたというを
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