昔ローマとカルタゴと戦争中アフリカのバグダラ河で長百二十フィートの蛇がローマ軍の行進を遮《さえぎ》った。羅《ロ》の名将レグルス兵隊をして大弩《おおゆみ》等諸機を発して包囲する事|塁砦《るいさい》を攻むるごとくせしめ、ついにこれを平らげその皮と齶をローマの一堂に保存した(プリニの『博物志《ヒストリア・ナチュラリス》』八巻十四章)。北欧の古伝に魔蛇ヨルムンガンド大地を囲める大洋にありて尾を口に啣《くわ》え大地を繞《めぐ》り、動く時は地震起る(マレー『北方考古篇《ノルザーン・アンチクイチース》』)。インドの教説に乳洋中にシェシャ蛇ありて常紐天《ヴィシュニュ》その上に眠る。この蛇頭に大地を戴く。『山海経』に〈崑崙《こんろん》山西北に山あり、周囲三万里、巨蛇これを繞り三周するを得、蛇ために長九万里、蛇この上におり、滄海《そうかい》に飲食す〉。十六年ほど前アンドリウスはエジプトで長六十フィートなる蛇の化石を発見した。
蛇の特質
蛇の特質は述べ尽くされぬほどあるだろうから、思い出すままに少々書いて見る。豊後の三浦魯一氏の説に(『郷土研究』二巻三号、以下この雑誌を単に『郷』と書き、巻数と頁数は数字のみ挙ぐる)蛇を川に流しこっちに首を向ければ戻って来る。向う岸の方に向ければ帰って来ぬとあるは何でもない事のようだが、蟾蜍が首を向けたと反対の方へ行くと全く異《ちが》って面白い。『古史通』に「『神代巻抄』に人を呪詛《じゅそ》する符などをば後様《うしろざま》に棄つる時は我身に負わぬという、反鼻《へび》をも後様に棄つれば再び帰り来らずというと見えたり」、紀州西牟婁郡では今もこうして蛇を捨てる。本邦でも異邦でも蛇が往来|稀《まれ》ならぬ官道に夏日臥して動かぬ事がある。これは人馬や携帯品に附いて来る虫や様々の遺棄物を餌《くら》うためでもあろう。ルマニヤの俗伝にいわく昔犬頭痛甚だしくほとんど狂せんとし、諸所駈け廻るうち蛇に邂逅《でくわ》せ療法を尋ねた。蛇いわく僕も頭痛持ちだが蛇の頭痛療法を知ると同時に犬の頭痛療法を心得おらぬから詰まらない。犬いわく汝《おまえ》の事はどうでもよい、とにかく予《おれ》の頭痛を治す法を教えてくれ後生《ごしょう》だ。蛇いわくそれそこにある草を食べなされ、直ちに治ると、犬すなわち往きてその草を食い頭痛たちまち快くなった。人さえ背恩の輩多き世に犬が恩など知ろうはずなく、頭痛が治った意趣返しをやらにゃならぬと怪《け》しからぬ考えを起し、蛇を尋ねておかげで己の病は治ったが頃日《このごろ》忘れいた蛇の頭痛療法を憶《おも》い出したと語り、蛇に懇請されてそれなら教えよう、造作もない事だ、汝が頭痛したら官道に往って全く総身を伸ばして暫《しばら》く居れば輙《たやす》く治ると告げた。蛇教えのままに身を伸ばして官道に横たわり居ると、棒持った人が来て蛇を見付けると同時に烈しくその頭を打ったので、蛇の頭痛はまるで何処《どこか》へ飛んでしまった。蛇は犬の奸計とは気付かず爾来頭が痛むごとに律義に犬の訓《おし》え通り官道へ横たわり行く。つまり頭が打ち砕かれたら死んでしまうから療治も入《い》らず。幸い身を以て遁《のが》れ得たら太《ひど》く驚いて何処かへ頭痛が散ってしまうのである(一九一五年版ガスター著『羅馬尼《ルーマニア》禽獣譚』)。コラン・ド・プランシーの『妖怪字彙《ジクショネーランフェルナル》』四版四一四頁には、欧州に蛇が蛻《かわぬ》ぐごとに若くなり決して死なぬと信ずる人あるという。英領ギヤナのアラワク人の談に、往時上帝地に降《くだ》って人を視察した、しかるに人ことごとく悪くて上帝を殺そうとし、上帝怒って不死性質を人より奪い蛇蜥蜴甲虫などに与えてよりこれらいずれも皮脱で若返ると。フレザーの『|不死の信念《ゼ・ビリーフ・イン・インモータリチー》』(一九一三年版)一に、こんな例を夥しく挙げて昔|彼輩《かれら》と人と死なざるよう競争の末人敗れて必ず死ぬと定ったと信ずるが普通だと論じた。この類の信念から生じたものか、本邦で蛇の脱皮《ぬけがら》で湯を使えば膚《はだ》光沢を生ずと信じ、『和漢三才図会』に雨に濡れざる蛇脱《へびのかわ》の黒焼を油で煉《ね》って禿頭《はげあたま》に塗らば毛髪を生ずといい、オエンの『老兎巫蠱篇《オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー》』に蛇卵や蛇脂が老女を若返らすと載せ、『絵本太閤記』に淀君妖僧日瞬をして秘法を修せしめ、己が内股の肉を大蛇の肉と入れ替えた。それより艶容|匹《たぐい》なく姿色衰えず淫心しきりに生じて制すべからず。ために内寵多しとあるは作事ながら多少の根柢はあるなるべし。本邦で蛇は一通りの殺しようで死に切らぬ故執念深いという。これに反し蝮は強き一打ちで死ぬ。『和漢三才図会』に蝮甚だ勇悍《ゆうかん》なり、農夫これを見付けて殺そうに
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