にもある金線蛙《とのさまがえる》だった。トチワすなわち常磐《ときわ》国については、大正元年十一月の『人性』に拙見を出した。似た話もあるもので、東牟婁郡高田村に代々葬後墓を発《あば》き尸を窃《ぬす》み去らるる家あり。これはその先祖途中で狼に喫《く》われんとした時、われに差し迫った用事あり、それさえ済まば必ず汝に身を与うべしと紿《あざむ》いてそのまま打ち過ぎしを忘れず、その人はもちろん子孫の末までもその尸を捉り去り食うという。上述水上の里話を聞いてから試すと、予が見得た限り蛇は蛙を必ず脚より食うが、亀は頭より蛙を食う。しかるに、アストレイの『新編紀行航記全集《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オヴ・ヴォエージス・エンド・トラヴェルス》』巻二の一一三頁に、西アフリカのクルバリ河辺に、二十五また三十フィートの大蛇あって全牛を嚥《の》むが、角だけは口外に留めて嚥む能わずとポルトガル人の話を難じ、すべて蛇は一切の動物を呑むに首より始む、角を嚥み能わずしていかでか全牛を呑み得んと論じある。なるほど鼠などを必ず首から呑むが、右に言った通り蛙をば後脚から啖い初むる故一概に言う事もならぬ。インドのボリグマ辺の俗信に、虎は人を殺して後部より、豹は前方より啖うという(ボールの『印度藪榛生活《ジャングル・ライフ・イン・インジア》』六〇五頁)。
 ガドウ教授蛇の行動を説いて曰く、蛇は有脊髄動物中最も定住するもので、餌と栖《すみか》さえ続く中は他処へ移らず、故に今のごとく播《ち》るには極めて徐々漸々と掛かったであろう。その動作迅速で豪《えら》い勢いだが、真の一時だけで永続せぬ事南方先生の『太陽』への寄稿同然とは失敬極まる。蛇の胴の脊髄とほとんど相応した多数の肋骨《あばらぼね》を、種々変った場面に応じて巧く働かせて行き走る。その遣り方はその這うべき場面に少しでも凸起の、その体の一部を托すべきあるに遇わば、左右の肋骨を交《こもご》も引き寄せて体を代る代る左右に曲げ、その後部を前《すす》める中、その一部(第三図[#図省略])また自ら或る凸起に托《の》り掛かると同時に、体の前部今まで曲りおったのが真直ぐに伸びて、イからハに進めらる。この動作をもっとも強く助勢するは蛇の腹なる多くの横|濶《ひろ》い麟板で、その後端の縁《へり》が蛇が這いいる場面のいかな微細の凸起にも引っ掛かり得る。この麟板は一枚ごとに左右
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