う、桑の薪で炙《あぶ》れば蛇足を出すと。オエン説に米国の黒人も蛇は皆足あり炙れば見ゆという由。プリニウスの『博物志』巻十一に、蛇の足が鵝の足に似たるを見た者ありと見ゆ。しかるに近来の疑問というは、支那道教の法王張天師の始祖張|道陵《どうりょう》、漢末|瘧《ぎゃく》を丘社に避けて鬼を使い、病を療ずる法を得、大流行となったが、後《のち》蟒蛇に呑まる。その子衡父の屍を覓《もと》めて得ざりければ、鵠《はくちょう》の足を縻《つな》いで石崖頂に置き、白日昇天したと言い触らし、愚俗これを信じて子孫を天師と崇《あが》めた(『五雑俎』八)。
ギリシアの哲学者ヘラクレイデース常に一蛇を愛養し、臨終に一友に嘱してその屍を隠し、代りにかの蛇を牀上に置き、ヘラクレイデースが明らかに神の仲間に入った証と言わしめたと伝うるもやや似て居るが、張衡が何のために鵠の足を崖頂に縻《つな》いだものか。道教の事歴にもっとも精通せる妻木直良氏に聞き合せても、聢《しか》と答えられず、鵠も鵝も足に蹼《みずかき》あり概して言わば古ローマ古支那を通じて蛇の足は水鳥の足に似居ると信じたので、張衡その父が蟒蛇に呑まれたのを匿《かく》し転じて、大蛇に乗りて崖頂に登り、それから昇天したその大蛇が、足を遺したと触れ散らしたのであるまいか。昇天するだけの力を持った大仙が、崖頂まで大蛇の仲継を憑《たの》まにゃならぬとは不似合な話だが、呉の劉綱その妻|樊《はん》氏とともに仙となり、大蘭山上の巨木に登り鋳掛屋《いかけや》風の夫婦|連《づれ》で飛昇したなどその例多し。蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《とんぼ》や蝉《せみ》が化し飛ぶに必ず草木を攀《よ》じ、蝙蝠《こうもり》は地面から直《じか》に舞い上り能わぬから推して、仙人も足掛かりなしに飛び得ないと想うたのだ。既に論じたごとく、実際蟒蛇には二足の痕跡を存するから張衡の偽言も拠《よりどころ》あり。
イタリアのグベルナチス伯説に、露国の古話に蛇精が新米寡婦方へその亡夫に化けて来て毎夜|伴《とも》に食い、同棲して、晨《あさ》に達し、その寡婦火の前の蝋《ろう》のごとく痩《や》せ溶け行く、その母これに教えて、他《かれ》と同食の際わざと匕《さじ》を堕《おと》し、拾うため俯《うつむ》いて他《かれ》の足を見せしむると、足がなくてニョッキリ尾ばかりあったので、蛇精が化けたと判り、寡婦寺に詣
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