安め、次夜果して望むところの霊験を得たが、試しのため林中に入るとたちまち浴場が現われ、ただ見る金の腰掛けと、銀の垢磨《あかす》り、銀の盥《たらい》が美々しく列《つら》なりあった。小杜《こもり》の蔭に潜んで覗《のぞ》きいると、暫時して妍華超絶|止《ただ》に別嬪どころでなく、真に神品たる処女、多人数諸方より来り集い、全く露形して皎月《こうげつ》下に身を洗う。正にこれ巫女廟の花は夢の裡《うち》に残り、昭君村の柳は雨のほかに疏《おろそ》かなる心地して、かの者餓鷹の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を見るがごとく、ただ就いてこれ食いおわらんと要したが、また思い返していずれ菖蒲《あやめ》と引き煩い、かれこれと計較《くらべみ》る内、惜しきは姿、東方明けなんとすると、一同たちまち消え失せた。これら美女、実は草野《かやの》の女王の娘どもで、各森林の精たり。その後今一度彼らの艶容を窺わんと、夜々脚を林中に運べど、処女も浴場も再び現われず、あてもない恋の焔《ほのお》に焦れ死んだ。されば忘れても夜中の秘密研究など志すべきでない。
 それから『想山著聞奇集』に、武州で捕えた白蛇の尾尖《おさき》に玉ありたりとて、図を出す。尾尖に大きな小豆《あずき》粒ほどの、全く舎利玉通りなる物、自ずから出来いた由見ゆ。十六年ほど前、和歌山なる舎弟方の倉に、大きな黄頷蛇《あおだいしょう》の尾端|夙《と》く切れて、その痕《あと》硬化せるを見出したが、ざっとこの図に似いた。余り不思議でもなきを、『奇集』に玉と誇称したのだ。毎度尾を引き切れた蛇はかようになるらしく、ロンドン等の地下鉄道を徘徊する猫の尾が、短くなると同じ理窟だ。かく尾切れた蛇を神とし、福を祈る風大和に存すと聞いた。『郷土研究』一巻三九六頁に見た中国の蛇神トウビョウも蛇に似て短いとは、かかる畸形の一層烈しいのでなかろうか。インドのカーシャ|丘《ヒルス》地方の迷信に、蟒蛇《うわばみ》が人家に寓《やど》れば大富を致す。悪人諸方を廻り人を殺して、耳鼻唇髪を切り取り、蟒蛇に捧げて自家に招きおらしむ。土民これを怖れて単身藪林に入らず、蟒蛇を奉崇する家は、何ほど物を売るも更に減らず、したがって金が殖えるばかりちゅう旨《うま》い話だ(一八四四年版『ベンガル亜細亜協会雑誌』十三巻六二八頁)。

     異様なる蛇ども

 前項にいった、わが邦中国のトウビョウ蛇
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