たと仏が説かれた。これで仏の本説は、人の善《よ》き事は善く、悪《あ》しき事は悪しく、箇々報いが来り、決して差し引き帳消してふ事がないと主張するものと判る。すなわち鏡を捧げた功徳で発願通り飛び切りの別嬪《べっぴん》に生まれるが、他の業報《むくい》で娼妓に生まるるを免れず、娼妓営業中五百人を欺いた報いで、牧牛人輩の発願そのまま、五百金銭を与えて死骸を汚さるるを免れぬは、大功は小罪を消し一善は一悪を滅すと心得た今日普通の業報説と大いに差《ちが》うようで、こんな仏説を呑み込み過ぎると、重悪を犯した者は、小善を治めても及び着かぬてふ自暴気味《やけぎみ》を起すかも知れず、今日の小乗仏教徒に、余り大事業大功徳を企つる者なきは多少この理由にも基づくなるべし。
アドルフ・エルトンの『世界周遊記《ライセ・ウム・ジェ・エルデ》』(一八三八年版、二巻一三頁)に、シベリアの露人が、新年に試みる指環占の中、竜てふ名号をいう事あるにより、この占法《うらかた》は蒙古より来れりと断じた。これは蒙古はインドと支那の文物を伝え、この二国が竜の崇拝至って盛んだから、竜てふ名号は蒙古を経て、二国よりシベリアに入ったとの推定であろう。予はこの推定を大略首肯するに躊躇せぬ。しかしかかる物を読んで、竜をアジアの一部にのみ流《おこな》われた想像動物と信ずる人あらば、誤解も甚だしく、実は竜に関する信念は、インドや支那とその近傍諸国に限らず、広く他邦他大州にも存したもので、たとえば、ニューギニアのタミ人元服を行う時、その青年必ず一度竜に呑まるるを要し(一九一三年版、フレザー『不死の信念《ゼ・ビリーフ・イン・インモータリチー》』一巻三〇一頁)、西北米のワバナキインジアンに、竜角人頭に著《つ》きて根を下ろし、伐《き》れども離れぬ話広く行われ(『万国亜米利加学者会報《トランサクチョン・ジュ・コングレス・アンターナチョナル・デー・アメリカニスト》』一九〇六年、クェベック版、九二頁)、西人がメキシコを発見せぬ内、土人が作った貴石のモザイク品に、背深緑、腹真紅、怒眼、鋭牙、すこぶる竜に似たものが大英博物館にあったので、予これは歌川派画工が描いた竜を擬《まね》たのだろと言うと、サー・チャーレス・リードが、聢《しっか》り手に執って見よというから、暫《しばら》く審査すると、全く東半球に産せぬ響尾蛇《ラットル・スネーク》の画の外相だけ東洋の竜に酷《よく》似たと判った。しかるにその後、仏人サミュール・ド・シャムプレーンの『一五九九―一六〇二年西印度および墨西哥』(ナラチヴス・オヴ・ア・ヴォエージ・ツー・ゼ・ウェスト・インジース・エンド・メキシコ、一八五九年英訳)を見るに、メキシコの響尾蛇の頭に両羽あり、またその地に竜を産し、鷲の頭、蜥蜴《とかげ》の身、蝙蝠《こうもり》の翹《つばさ》で、ただ二大脚あり。大きさ羊のごとく、姿怖ろしけれど害を為《な》さぬとあった。因ってかの国にも、古来蛇、蜥蜴などを誇張して、竜の属《たぐい》の想像動物を拵《こしら》えあったと知った。濠州メルボルン辺に棲《す》むと伝えた巨蛇《おろち》ミンジは、プンジェル神の命のままに、疱瘡と黒疫《ペスト》もて悪人を殺すに能《よ》く、最《いと》高き樹に登り尾もて懸け下り、身を延ばして大森林を踰《こ》え、どの地をも襲う。また乾分《こぶん》多く、諸方に遣わして疫病を起す。この蛇来る地の人皆取る物も取らず、死人をも葬らず、叢榛《こもり》に放火して、速やかに走り災を脱れた(一八七八年版、スミス『維多利亜生蕃篇《ゼ・アボリジンス・オヴ・ビクトリア》』巻二)といえる事体、蛇よりは欧亜諸邦の毒竜の話に極めて似居る。例せばペルシアの古史賦『シャー・ナメー』に、勇士サムが殺した竜は頭髪《かみ》を地に※[#「てへん+曳」、第4水準2−13−5]《ひ》いて山のごとく起り、両の眼|宛然《さながら》血の湖のごとく、一たび※[#「口+「皐」の「白」にかえて「自」、第4水準2−4−33]《ほ》ゆれば大地震動し、口より毒を吐く事洪水に似、飛鳥|竭《つ》き、奔獣尽き、流水より※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《がく》を吸い、空中より鷲を落し、世間恐怖もて満たされ、一国のために人口の半ばを喪《うしの》うたと吹き立て、衆経撰『雑譬喩《ぞうひゆ》経』に、昔|賈客《こかく》海上で大竜神に逢う、竜神汝は某国に行くかと問うに、往くと答えると、五升|瓶《がめ》の大きさの卵一つを与え、かの国に行かば、これを大木の下に埋めよ、しからざれば殺すぞという。恐ろしくてその通り埋めてより国中疫病多し、王占いてかの蟒卵《ぼうらん》を掘り出し焼き棄てると疫が息《や》んだ。後日かの賈客、再び竜に逢って仔細を語ると、奴輩《やつら》を殺し尽くさぬは残念というから、その故を問う。我|
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