本《もと》かの国の健児某甲だった。平日力を恃《たの》んで国中の人民を凌轢《りょうれき》せしも、一人としてわれを諫むるなく、為《な》すがままに放置《すてお》いたので、死後竜に生まれて苦しみ居る故に、返報に彼らを殺そうとしたのだといった。また、舎衛国に、一日縦横四十里の血の雨ふる。占師曰く、これは人蟒《じんぼう》が生まれた兆だ、国中新生の小児をことごとく送り来さしめ、各々一空壺中に唾《つばは》かしむれば、唾《つばき》が火となる児がそれだというので試みると、果して一児が人蟒と別った、因ってこれを無人処《ひとなきところ》に隔離し、死刑の者を与えると、毒を吐いて殺す事前後七万二千人、ある時獅出で来て吼声四十里に達したので人蟒を遣わすに、毒気を吐いてたちまちこれを仆《たお》した。のち人蟒老いて死せんとする時、仏《ぶつ》、舎利弗《しゃりほつ》して往き勧めて得脱《とくだつ》せしむ。人蟒われいまだ死せざるに、この者われを易《あなど》り、取次もなしに入り来ると瞋《いか》って毒気を吐くを、舎利弗慈恵を以て攘《はら》い、光顔ますます好《よ》く、一毛動かず。人蟒すなわち慈心を生じ、七たび舎利弗を顧みて、往生昇天したとある。竜気を稟《う》けて生まれてだにこんなだ。いわんや竜自身の大毒遥かに人蟒や蟒卵に駕するをやで、例せば、難陀《なんだ》※[#「烏+おおざと」、第3水準1−92−75]波難陀《うばなんだ》二竜王、各八万四千の眷属あり、禍業の招くところ、悩嫉心を以て、毎日三時その毒気を吐くに、二百五十|踰膳那《ようじゃな》内の鳥獣皆死し、諸僧静かに度を修する者、皮肉変色|憔悴《やせ》萎《しお》れ黄ばんだので、仏|目蓮《もくれん》をして二竜を調伏せしめた(『根本説一切有部毘奈耶』四四)。
 かく竜てふ物は、東西南北世界中の大部分に古来その話があるから、東洋すなわち和漢インド地方だけの事識れりとて、竜の譚全体を窺うたといわれぬ、英国のウォルター・アリソン・フィリップ氏の竜の説に、すこぶる広く観て要を約しあるから、多少拙註を加えて左に抄訳せり。ついでに述ぶ、前節に相師が妙光女を見て、この女必ず五百人と交わらんといった話を述べたが、一八九四年版ブートン訳『亜喇伯夜譚補遺《サップレメンタリー・ナイツ》』一にも、アラビアで一《ある》女生まれた時、占婦|卜《ぼく》してこの女成人して、必ず婬を五百人に売らんと言いしが中《あた》った事あり、わが邦にも『水鏡』恵美押勝《えみのおしかつ》討たれた記事に「また心|憂《う》き事|侍《はべ》りき、その大臣の娘|座《おわ》しき、色《いろ》容《かたち》愛《めで》たく世に双人《ならぶひと》なかりき、鑑真《がんじん》和尚の、この人千人の男に逢ひ給ふ相|座《おわ》すと宣《のたま》はせしを、たゞ打ちあるほどの人にも座せず、一、二人のほどだにも争《いか》でかと思ひしに、父の大臣討ち取られし日、御方《みかた》の軍《いくさ》千人ことごとくにこの人を犯してき」、いずれも妙光女の仏話から生じたらしいと、明治四十一年六月の『早稲田文学』へ書いて置いた。『呉越春秋』か『越絶書』に、伍子胥《ごししょ》越軍を率いて、その生国なる楚に討ち入り、楚王の宮殿を掠《かす》めた時、旧君たりし楚王の妃妾を強辱して、多年の鬱憤を晴らしたとあった。『将門記《しょうもんき》』に、平貞盛《たいらのさだもり》と源扶《みなもとのたすく》敗軍してその妻妾|将門《まさかど》の兵に凌辱せられ、恥じて歌詠んだと出づ。強犯されて一首を吟《くちずさ》むも、万国無類の風流かも知れぬが、昔は何国《いずく》も軍律|不行届《ふゆきとどき》かくのごとく、国史に載らねど、押勝の娘も、多数兵士に汚された事実があったのを、妙光女の五百人に二倍して、千人に云々と作ったのであろう。
 フィリップ氏曰く、竜の英仏名ドラゴンは、ギリシアにドラコン、ラテンのドラコより出で、ギリシアのドラコマイ(視る)に因《ちな》んで、竜眼の鋭きに取るごとしと。ウェブストルに、竜眼怖ろしきに因った名かとある方、釈《と》き勝《まさ》れりと惟《おも》う。例せば上に引いたペルシアの『シャー・ナメー』に、竜眼を血の湖に比べ、欧州の諸談皆竜眼の恐ろしきを言い、殊に毒竜バシリスクは、蛇や蟾蜍《ひきがえる》が、鶏卵を伏せ孵《かえ》して生ずる所で、眼に大毒あり能く他の生物を睨《にら》み殺す、古人これを猟った唯一の法は、毎人鏡を手にして向えば、彼の眼力鏡に映りて、その身を返り射《い》、やにわに斃死《へいし》せしむるのだったという(ブラウン『俗説弁惑《プセウドドキシア・エピデミカ》』三巻七章、スコッファーン『科学俚俗学拾葉《ストレイ・リープ・オヴ・サイエンス・エンド・フォークロール》』三四二頁以下)。シュミットの『銀河制服史《ゼ・コンクエスト・オヴ・ゼ・リヴァー・
前へ 次へ
全39ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング