とつ》の下から呼び上ぐれば効験最も著しく好《よ》き贈品随って来るとか(一九〇九年発行『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』十輯十一巻)。『古事記』に大国主《おおくにぬし》その兄弟に苦しめられた兎を救い吉報を得る事あり、これらは兎を吉祥とした例だが兎を悪兆とする例も多い。それは前述通りこの獣半男女また淫乱故とも、至って怯懦《きょうだ》故とも(アボット、上出)、またこれを族霊として尊ぶ民に凶事を知らさんとて現わるる故(ゴム、上出)ともいう。すべて一国民一種族の習俗や信念は人類初めて生じてより年代紀すべからざる永歳月を経《へ》種々無限の遭際を歴《へ》て重畳千万して成った物だから、この事の原因はこれ、かの事の起源はあれと一々判然と断言しがたく、言わば兎を半男女また淫獣また怯懦また族霊としたから、兎が悪兆に極《き》められてしもうたと言うが一番至当らしい、さて予の考うるは右の諸因のほかに兎が黠智《かっち》に富むのもまた悪獣と見られた一理由だろ。猟夫から毎度聞いたは猟に出懸ける途上兎を見ると追い懸けて夢中になる犬多く、追えば追うほど兎種々に走り躱《かく》れて犬ために身|憊《つか》れ心乱れて少しも主命を用いず、故に狩猟の途上兎を見れば中途から還《かえ》る事多しと、したがって熊野では猟夫兎を見るのみかはその名を聞くばかりでも中途から?ォ還す。アボットの書(上出)にマセドニア人兎に道を横ぎらるるを特に凶兆とし、旅人かかる時その歩立《かちだち》と騎馬とに論なく必ず引き還す。熟兎や蛇に逢うもまたしかり。スコットランドや米国でもまたしかり。ギリシアのレスボス島では熟兎を道で見れば凶、蛇を見れば吉とすと見ゆ。英国のブラウン(十七世紀の人)いわく当時六十以上の人兎道を横ぎるに逢うて困らざるは少なしと。ホームこれに追加すらく、姙婦と伴れて歩く者兎道を横切るに遭わばその婦の衣を切り裂きてこれを厭《まじない》すべしと。フォーファー州《シャー》の漁夫も、途を兎に横ぎらるれば漁に出でず(ハツリット、同前)。コーンウォールの鉱夫金掘りに之《ゆ》く途中老婆または熟兎を見れば引き還す(タイロル『原始人文篇《プリミチヴ・カルチュール》』巻一、章四)。兎途を横ぎるを忌む事欧州のほかインド、ラプランド、アラビア、南アフリカにも行わる(コックス、一〇九頁)。ギリシアではかかる時その人立ち駐《どま》りて兎を見なんだ人が来て途を横ぎるを俟《ま》ちて初めて歩み出す(コラン・ド・ブランチー、前出)。スウェーデンでは五月節日《メイデイ》に妖巫黒兎をして近隣の牛乳を搾り取らしむると信じ、牛を牛小舎に閉じ籠め硫黄で燻《ふす》べてこれを禦《ふせ》ぐ。たとい野へ出すも小児を附け遣わさず主人自ら牛を伴れ行き夕《ゆうべ》に伴れ帰って仔細に検査し、もし創《きず》つきたる牛あらばこれを妖巫に傷つけられたりと做《な》し、燧石《ひうちいし》二つで牛の上から火を打ち懸けてその害去ると信じ、また件《くだん》の黒兎に鬼寄住し鳥銃も利《き》かず銀もしくは鋼の弾丸を打ち懸けて始めてこれを打ち留め得と信ぜらると(ロイド、前出一五)。以前は熊野の猟師みな命の弾丸とて鉄丸に念仏を刻み付けて三つ持ち、大蛇等|変化《へんげ》の物を打つ必死の場合にのみ用いた。伊勢の巨勢という地に四里四方刀斧入らざる深山あり、その近傍で炭焼く男いつの歳か十月十五日に山を去って里に帰らんとするに妻子を生む。因って二里半歩み巨勢へ往き薬を求め還って見れば小舎の近傍に板箕《いたみ》ほど大きな蹟《あと》ありて小舎に入り、入口に血|滴《したた》りて妻子なし。必然|変化《へんげ》の所為と悟り鉄砲を持ち鉄鍋《てつなべ》の足を三つ欠き持ちて足蹟を追い山に入れば、極めて大なる白猴新産の子を食いおわり片手で妻の髪を掴み軽々と携えて走り行く、後より戻せと呼ぶと顧みて妻を樹の枝に懸けて立ち留まりやがて片手で妻を取り上げその頭を咬《か》む、その時遅くかの時速くその脇下に鍋の足を射込んで殺しおわったが、全体絶大なかなか運ぶべくもあらねばその尾のみ切り取って帰った。白毛|茸生《じょうせい》僧の払子《ほっす》のごとく美麗言語に絶えたるを巨勢の医家に蔵すと観た者に聞いた人からまた聞きだ。すべて化生《けしょう》の物は脇を打つべく銃手必死の場合には鉄丸を射つべしというた。スウェーデンと日本と遠方ながら似たところが面白くて書き付けた。英国の一部には兎が村を通り走ればその村に凶事生ずとも火災ありともいう。明治四十一年四月ハロー市の大火の前に兎一疋市内を通り抜けた由(翌年六月五日の『随筆問答雑誌《ノーツ・エンド・キーリス》』四五八頁)。
最後に和田垣博士の『兎糞録』はまだ拝見せぬが兎糞には種々珍しい菌類を生じ予も大分集め図説を作りある。備後《びんご》の人いわく兎糞を砂糖湯で服すると遺尿に神効ありと。また予の乾児《こぶん》に兎糞を乾かして硬くなったのを数珠に造りトウフンと名づけて、田辺湾の名物で只今絶滅した彎珠の数珠に代えて順礼等を紿《あざむ》き売った者がある、何してでも儲くりゃ褒められる世の中には見揚げた心底じゃ。
(大正四年一月、『太陽』二一ノ一)
(付) 兎と亀との話
『太陽』雑誌の新年号へ「兎に関する民俗と伝説」という長篇を書いたがここには『太陽』へ出さなんだ事ばかり書く。
第一に小学児童が熟知《よくし》った亀と兎の競争の話について述べよう、これは『イソップ物語』に出たものだ。イソップはギリシアの人で耶蘇《ヤソ》紀元前五百六十年頃生きておった名高い教訓家だが、今世に伝われる『イソップ物語』は決してそんな古いものでなくずっと後の人がイソップに托《かこつ》けて書き集めたものという、しかし何に致せ西洋話本の親方としてその名声を争うものはない、「亀と兎の競争の話」はこの物語に出た諸話の中もっとも名高い物で根気|能《よ》く辛抱して励めば非常の困難をも凌《しの》いで事業を成就し得る事を示したものだから気力ある若い人々が世間へ出る始めにこの話を額の立て物と戴《いただ》き真向《まっこう》に保持して進撃すべしと西洋でいう。この話に種々の異態がある、しかし普通英国等で持て囃《はや》すのはこうである。いわく兎が亀に会うて自分の足|疾《はや》きに誇り亀の歩遅きを嘲ると亀|対《こた》えてしからば汝と競争するとして里程は五里|賭《かけ》は五ポンドと定めよう、さてそこに聞いている狐を審判役としようと言うと兎が承知した。因って双方走り出したが兎はもとより捷疾だから亀が見えぬほど遠く駈け抜けた、ところで少し疲れたらしい、因って路傍の羊歯《しだ》叢中に坐ってうとうとと眠る、己れの耳が長いから亀がゴトゴト通る音を聞くが最期たちまち跳ね起きてまた走り抜きやるつもりだった、しかるに余り侮り過ぎて眠り過ぎた間に亀は遅いものの一心不乱に歩み走ってとうとう目的点へ着いたので兎の眼が覚《さ》めた時はすでに敗けいた。
欧州外にもこれに似た話があるが件《くだん》の話と異なり、辛抱の力で遅い奴が疾い奴に勝ったのでなくて専ら智力の働きで勝ったとしている。サー・アレキサンダー・ブルドンがフィジー島人から聴き取った話に曰く、鶴と蟹とがどちらが捷《はや》いと相論じた、蟹が言うには何と鶴が言っても己《おれ》が捷い、すなわち己が浜を伝うて向うに達する間に鶴に今相論じいる場所から真直に飛んで向うへやっと達し得ると言った、鶴しからば競争を試《や》って見ようと言うと蟹が応じたので二人一斉に一、二、三と言い畢《おわ》って鶴が一目散に飛び出す、蟹は徐《おもむろ》に穴に入って己《おれ》の眷属が到る処充満しいるから鶴はそれを己一人と惟《おも》うて騙《だま》される事と笑いいる、鶴が飛んでいる中|何処《どこ》へ往っても蟹の穴があるのを見て、さては己より前に蟹がそこへ来て早《はや》穴を掘って住んでいやがるかと不審してそこへ下りて耳を穴に当て聴いて見るとブツブツと蟹の沫《あわ》吹く音がする、また飛び上がって少し前へ往くとまた蟹の穴が見えるのでまた下りて聴くと沫の音する、早蟹がここまで来て穴を掘っておると思うて何度も何度も飛んでは聴き聴いてはまた飛び上がり、余り疲れてついに海に落ちて鶴は死んでしまった。また一つフィジー島で話すは鶴と蝶との競争で蝶が鶴に向い何とトンガ島まで飛んで見よ、かの島には汝の大好物の蝦《えび》が多いというに、鶴これに応じて海上を飛び行くその背へちょっと鶴が気付かぬように蝶が留まって鶴の飛ぶに任す、さて鶴が些《すこし》休息しようとしだすと蝶はたちまちその背を離れ予の方が捷いと言いながら前へと飛んで行く、小癪《こしゃく》なりと鶴が飛び出して苦もなく蝶を追い過すと蝶また鶴の背に留まり、鶴が休もうとするとまた蝶が嘲弄しながら飛び出す、このように蝶は鶴の背に留まり通しで鶴は少しも休む事ならずついに労《つか》れ死んでしもうた。
マダガスカル島にもこんな話が若干ある、その一つにいわく、昔々野猪と蛙が平地から山の絶頂まで競争しようと懸かった、さて野猪が豪《えら》い勢いで乗り出すと同時に蛙がその頸上に飛び付いて留まった、蛙の身は至って軽く野猪の頸の皮がすこぶる厚いから一向気が付かぬ、かくて一生懸命に走って今一足で嶺に達するという刹那《せつな》蛙が野猪の頸からポイと躍《と》んで絶頂へ着いたので野猪我は蛙にして遣《や》られたと往生を唱うた、残念でならぬから今度はどちらが能く跳ぶか競べ見んと言うと蛙|容易《たやす》く承諾し打ち伴れて川辺に到り一、二、三といい了《お》うと同時に野猪が跳び出すその時遅くかの時速くまた蛙めが野猪の頸に飛び付いたのを一向知らず、努力して川の彼岸へ跳び下りる前に蛙がその頸から離れて地へ下りたので野猪眼を赤くし口から白い沫を吐いて降参した。
今一つマダガスカル島の話には野猪と守宮《やもり》と競争したという、ある日野猪が食を求めに出懸ける途上小川側で守宮に行き逢い、何と変な歩きぶりな奴だ、そんなに歩が遅くちゃアとても腹一杯に物を捉え食う事はなるまい、お前ほど瘠《や》せて足遅と来ちゃ浮々《うかうか》すると何かに踏み殺されるであろう、よしか、一つ足を試して見よう、予がこの谷をまるで歩き過ごした時に汝はまだこの小川の底を這《は》い渡ってしまわぬ位だろうと言うと守宮そんなに言われると一言も出ぬ、しかし日本の売淫などの通語にも女は面《つら》より床上手などと言って守宮にはまた守宮だけの腕前足前もあればこそ野猪様の御厄介にならず活きて居られると言うものサ、何と及ばぬながら一つ競駈《かけくらべ》を試して見ようでござらぬかと言うと、野猪心中取るにも足らぬ守宮|奴《め》と蔑みながら、さようサ、だがここは泥が多い万一己の足で跳ね上げる泥塊が汝の身に降り懸かって見ネーナ、たちまち饅頭の上へ沢庵の重しを置いたように潰《つぶ》れてしまうが気の毒だ、ちょうどソレそこの上の方に乾いた広場があるからそこで試して見ようそしてもし予が負けたら予と予の眷属残らず汝守宮殿の家来になりましょうと言うと、どう致しまして野猪様御一疋でいらっしゃっても恐ろしくてならぬものを御眷属まで残らず家来にしようなどとは夢存じ寄りません、だがほんの遊戯と思召《おぼしめ》して一つ御指南を仰ぎたいと守宮が答えて上の方の広場へ伴れ行き、サアあそこの樹幹にヴェロと言う茅《かや》が生えて居る、そいつを目的に競争と約束成りて野猪がサア駈け出そうと言うと守宮オット待ちなさい足場を確《しか》と検して置こうと言うて野猪の鬣《たてがみ》の直ぐ側《そば》に生えおった高い薄《すすき》に攀《よ》じ登りサア駈けろと言うと同時に野猪の鬣に躍び付いた、野猪一向御客様が己の頸に取り付いていると心付かず、むやみ無性に駈け行きてかの樹の幹に近づくとたちまち守宮は樹の幹に飛び付きそれ私の方が一足捷かったと言われて野猪腹を立て一生懸命に駈け戻ると守宮素捷くその鬣に取り付きおり、今一足で出立点と言うときたちまち野猪の前へ躍び下りる、かくすること数多回一度も野猪の勝とならなんだので憤りと憊《つか》れで死んでしまったと
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