づ。『古今注』に〈漢の建平元年山陽白兎を得、目赤くして朱のごとし〉とあれば、越後兎など雪中白くなるを指したのでなく尋常の兎の白子を瑞としたのだ。熟兎に白子多きは誰も知る通りだが明の崇禎の初め始めて支那へ舶来、その後日本へも渡ったらしい(『本草啓蒙』四七)。黒兎は以前瑞としなかったが石勒《せきろく》の時始めて水徳の祥とした。プリニウスいわく越後兎冬白くなるは雪を食うからと信ぜらると。何ぼ何でも雪ばかりじゃあ命が続かぬが、劉向の『説苑』一に弦章斎景公に答えた辞中、尺蠖《しゃくとりむし》黄を食えばその身黄に蒼《あおき》を食えばその身蒼しとあれば、動物の色の因をその食物に帰したのは東西一轍と見える。ただし只今いわゆる保護色も古く東西の識者に知れいたは、唐の段成式の『酉陽雑俎《ゆうようざっそ》』に顛当《つちぐも》蠅を捉えて巣に入りその蓋を閉じると蓋と地と一色で並《とも》に糸隙の尋ぬべきなしと自分の観察を筆し、またおよそ禽獣は必ず物影を蔵匿して物類に同じくす、これを以て蛇色は地を逐い茅兎《かやうさぎ》(茅の中に住む兎)は必ず赤く鷹の色は樹に随うと概論したはなかなか傑《えら》い。明治二十七年予この文を見出し『ネーチュル』へ訳載し大いに東洋人のために気を吐いた。その時予は窮巷《きゅうこう》の馬小屋に住んでいたが確か河瀬真孝子が公使、内田康哉子が書記官でこれを聞いて同郷人中井芳楠氏を通じて公使館で馳走に招かれたのを他人の酒を飲むを好かぬとして断わったが、河瀬内田二子の士を愛せるには今も深く感佩《かんぱい》し居る。前に述べた川村竹治などはまるで較べ物にならぬ、その後プリニウスを読むと八巻三十五章に蛇が土と同色でその形を隠す事は一汎《いっぱん》に知らる、九巻四八章に章魚《たこ》居処に随って色を変ずとあった。
『本草啓蒙』に「兎の性|狡《こう》にして棲所の穴その道一ならず、猟人一道を燻《ふすぶ》れば他道に遁《のが》れ去る、故に『戦国策』に〈狡兎三窟ありわずかにその死を免れ得るのみ〉という」。兎は後脚が長くてすこぶる迅《はや》く走りその毛色が住所の土や草の色と至って紛らわしき上に至って黠《ずる》く、細心して観察した人の説にその狡智狐に駕《が》すという。例せば兎|能《よ》く猟犬がその跡を尋ぬる法を知り極めて巧みに走って蹟《あと》を晦《くら》ます。時として長距離を前《すす》み奔《はし》って後同じ道筋を跡へ戻る事数百ヤードにしてたちまち横の方へ高跳《たかとび》して静かに匿《かく》れ居ると犬知らず前へ行ってしまう。その時兎たちまち元の道へ跳ね戻り犬と反対の方へ逃れ去る。また自分の足に最も適し、犬の足に極めて不利な地を択んで走る事妙なり(ウッド、同前)。されば米国の黒人は兎を食えばその通り狡黠敏捷になると信じ(オエン、二三〇頁)、アフリカのバンツ人の俗譚に兎動物中の最も奸智あるものたれば実際を知らざる者これを聞書《ききがき》する時スングラ(兎)を狐と誤訳した(一九〇六年ワーナー『英領中央亜非利加土人篇《ゼ・ネチヴス・オヴ・ブリチシュ・セントラル・アフリカ》』二三二頁)。露国の話に兎熊児を嗤《わら》い唾を吐き掛けたので母熊怒って追い来るを兎|旨《うま》く逃げて熊穽に陥るとあり、蒙古に満月の夜兎、羊と伴《つ》れて旅立つを狼襲うて羊を啖わんとす、その時兎偽ってわれは帝釈《たいしゃく》の使で狼千疋の皮を取りに来たと呼ばわり狼怖れて逃げた物語あり、わが邦の「かちかち山」の話も兎の智計能く狸を滅ぼした事を述べ、『五雑俎』九に〈狡兎は鷹来り撲《う》つに遇えばすなわち仰ぎ臥し足を以てその爪を擘《はく》してこれを裂く、鷹すなわち死す云々、また鷹石に遇えばすなわち撲つあたわず、兎これを見てすなわち巌石の傍に依って旋転す、鷹これを如何《いかん》ともするなし云々〉、『イソップ物語』に鷲に子を啖われた熟兎樹を根抜きに顛覆《てんぷく》し鷲の巣中の子供を殺した話見え、インドに兎己れを食わんとする獅子を欺き井に陥るる話あり。またいわく月湖辺《つきのうみべ》に群兎住み兎の王を葬王《ヴィガヤダソタ》と号《な》づく。象群多くの兎を踏み殺せしを憤り兎王象王に月諸象を悪《にく》めりと告ぐ。象月を見んと望みければすなわちこれを湖畔に伴れ行き水に映れる月影を示す。象月に謝゜せんとて鼻を水に入るるに水掻き月影|倍多《ふえ》たり、兎象に向い汝湖水を擾《みだ》せし故月いよいよ瞋《いか》ると言い象ますます惶《おそ》れ赦《ゆるし》を乞い群象を帥《ひき》いてその地を去る、爾後《じご》兎群静かに湖畔に住んで永く象害を免ると(一八七二年版グベルナチス『動物譚原《ゾーロジカル・ミソロジー》』巻二章八)。かく狡智に富む故兎を神とした人民少なからず。すでに『古事記』に兎神を載せ、今も熊野で兎を巫伴《みことも》と呼ぶは、狼を山の神というから狼の山の神に近侍し傳令する女巫《みこ》と見立てたのだろ。『抱朴子』に〈山中卯日|丈人《じょうじん》と称える者は兎なり〉。和漢ともにこれを神物として直ちに本名を呼ぶを忌むのだ。兎神が逢蒙をして后※[#「※」は「はね+廾」を上下に組み合わせる、108−6]《こうげい》を殺さしめた話は既に上に述べた。南米のチピウヤン人信じたは大兎神諸獣を率いて水に浮び大洋底より採った砂粒一つもて大地を造り部下の諸獣を人間に化《な》した。しかるに水王たる大虎神これを拒んだので二神争闘今に至るも息《や》まぬと(コラン・ド・ブランチ、二八四頁)。また北米住アルゴンキン人は兎神ミチャボを最高神とし東方に住むとも北方に棲むともいい、人死すればそこへ往くと信ず(『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』十一版二巻)。仏教薬師十二神中兎神あり。『大集経』二十二に浄道窟の兎天下を遊行《ゆぎょう》して声聞乗《しょうもんじょう》を以て一切兎身衆生を教化《きょうけ》し離悪勧善せしむとあるは兎中の兎仏ともいうべきものありと説いたので、『宝星陀羅尼経』三に仏が首楞厳《しゅりょうごん》三昧《ざんまい》に入ると竜に事《つか》うるもの象に事うるものの眼には竜象と見え兎神に事うるものは仏を兎形に見るとあるから、察するにその頃インドに兎を族霊《トテム》と奉尊する民俗があったらしい、別項虎に関する伝説と民俗とに述べた通り、族霊とは一族とある物との間に切るに切れぬ縁ありと信ずるその物をその一族の族霊というので、予は先年『人類学雑誌』上でわが邦諸神の使い物は多くその神を奉ずる一族の族霊たりし由を説いた。例せば確か兎は気比宮か白山の神使だった、ローマのカイゼルが英国に討ち入った時兎雄鶏鵞を食わぬ民あったと記したが、その風近世まで残り兎を畜《こ》うてこれを殺さんとする者その由を兎に告げると兎自殺したという。ビッデンハムでは九月二十二日イとに白兎を緋の紐で飾り運んでアガサ尊者の頌《ヒムン》を歌い村民行列す。未婚の女これに遇わば皆左手の拇指《おやゆび》と食指を伸して兎に向い処女よ処女よ他《かれ》をここに葬れと唱う。その意味十分に判らぬが昔兎を族霊として厚く葬った遺風とだけは確かに知れる(一九〇八年版ゴム『歴史科学としての民俗学』二八七頁)。西暦紀元六十二年駐英ローマ兵士がイケニ種の寡后ポアジケアを打ちその二女を強姦せしよりポアジケア兵を挙げた時、后まず懐《ふところ》より兎を出しその動作を見て必勝と卜《うらな》い定め臣下皆そのつもりで勇み立ちてたちまちローマ方七万人を鏖殺《おうさつ》したがついに兵敗れて後は自ら毒を仰いで死んだ。これ古ブリストン人が兎を族霊として卜占に用いたのだとゴムは論じた。ただしかの后の当の敵たるローマ人また兎を卜に用い食用として殺さなんだ(ハツリット、同前)。熊楠その卜法の詳しきを知り得ぬが、プリニウス十一巻七三章にブリレツム辺等の兎は二肝あり他所へ移せば一肝を失うとあるを見るといわゆる肝卜法《アンチノボマンシー》をローマ人専ら兎に施したらしい。アボットの『マセドニア民俗』(一〇六頁)にアルバニア人のある種族は今に兎を殺さずまた死んだ兎に触れぬと見ゆ。キリスト教国で復活節に卵を彩り贈るが常で、英国ヨーク州ではこれを小さき鳥巣に入れて戸外に匿し児童をして捜し出さしむるに、スワビアでは兎の卵とて卵とともに兎を匿し、ドイツの諸部ではこの日卵焼の兎形の菓子を作る。わが邦にも古く伏兎という菓子あり、兎に似せた物と聞くが実否は知らぬ。復活節をイースターというはアングロ・サクソン時代に女神エストルをこの節祭ったから起る。思うにこの神の使物が兎で英国(ならびにドイツ等?)有史前住民の春季大祭に兎を重く崇《あが》めた遺風だろうとコックスが説いた(『民俗学入門《アン・イントロダクション・ツー・フォークロール》』一〇二頁)。熊楠|謹《つつし》んで攷《かんが》うるに、古エジプト人は日神ウンを兎頭人身とす、これ太陽|晨《あした》に天に昇るを兎の蹶起《けっき》するに比したんじゃ(バッジ『埃及諸神譜《ゼ・ブック・オブ・ゼ・エジプシアンス》』巻一)。兎を月気とのみ心得た東洋人には変な事だ。コックス説に古アリア人の神誌に、春季の太陽を紅また金色の卵と見立て、後《のち》キリスト教興るに※[#「※」は「しんにょう+台」、110−9]《およ》びこれを復活の印相としたとい、。しからば古欧州にもエジプト同前日を兎と見立てた所もあって卵と見立てたのと合併して、只今|復活節《イースター》にいわゆる兎の卵を贈りまた卵焼の兎菓子を作る事となったのであろう。けだし冬以来勢い微《かす》かなりし太陽が春季に至ってまた熾《さか》んなるを表示したのだ。老友マクマイケル言いしはドイツでは村人この日兎を捕え殺して公宴を張る所多しと。大抵|族霊《トテム》たる動物を忌んで食わぬが通則だが、南洋島民中に烏賊《いか》を族霊としてこれを食うを可《よ》しとするのもある(『大英類典』第九版トテムの条)。ドイツ人がもと族霊たりし兎を殺し食うも同例で、タスマニア人が老親を絞殺して食いしごとく身内の肉を余所《よそ》の物に做了《してしま》うは惜しいという理由から出たのだろ。サウシの書(前出)に若いポルトガル人が群狼に襲われ樹上に登って害を免がれ後日の記念にその樹を伐り倒し株ばかり残して謝意を標《しる》した。カーナーヴォン卿その株を睹《み》由来を聴いて、英人なら謝恩のためこの樹を保存すべきに葡人はこれを伐った、所|異《かわ》れば品《しな》異るも甚だし、以後ここの人がどんな難に遇うを見ても我は救わじ、救うて御礼に殺されちゃ詰まらぬと評したとある。先祖来護りくれた族霊を殺し食うてその祭を済ますドイツ人の所行これに同じ。しかし日本人も決して高くドイツ人を笑い得ず、予が報国の微衷もて永々《ながなが》紀州のこの田舎で非常の不便を忍び身命を賭して生物調査を為《な》し、十四年一日のごとく私財を蕩尽《とうじん》して遣《や》って居るに、上に述べた川村前知事ごとき渝誓《ゆせい》してまで侮辱を加え来る者がすこぶる少なからぬからというて置く。
民俗学者の説に諸国で穀を刈る時少々刈らずに残すはもと地を崇めしより起る。例せばドイツで穀母《こくのはは》、大母《おおはは》、麦新婦《むぎのよめ》、燕麦新婦《からすむぎのよめ》、英国で収穫女王《とりいれじょおう》、収穫貴婦人《とりいれきふじん》など称し、刈り残した稈《わら》を獣形に作りもしくは獣の木像で飾る、これ穀精《こくのせい》を標すのでその獣形種々あるが、欧州諸邦に兎に作るが多い、その理由はフレザーの大著『金椏篇《ゴルズン・バウ》』に譲り、ここにはただこんな事があると述べるまでだ。グベルナチス説に月女神ルチナは兎を使い出産を守る。パウサニアスに月女神浪人都を立てんとする者に教え兎が逃げ込む林中に創立せしめた譚《はなし》を載す。インドにもクリアン・チャンド王狩りすると兎一疋林に入りて虎と化けた、「兎ほど侮りゃ虎ほど強い」という吉瑞と判じてその地にアルモウー城を建てたという。英国で少女が毎月|朔日《ついたち》最初に言《ものい》うとて熟兎《ラビット》と高く呼べばその月中幸運を享《う》く、烟突《えん
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