ノ、バクランドは田林の保護は鳥類の保護を須《ま》つ人工でどんな保護法を行《や》っても鳥が害虫を除き鷙鳥《しちょう》が悪禽を駆るほどの効は挙がらぬ、たまたま鷹や梟《ふくろう》に※[#「※」は「轂」の字で左下の部分が「車」でなく「鳥」、65−7]《ひよこ》一疋金魚一尾捉られる位は冥加税《みょうがぜい》を納めたと心得べしと説いた、現に田辺附近で狐を狩り尽くして兎が跋扈《ばっこ》し、その害狐に十倍し弱り居る村がある、されば支那人も夙《つと》に禽獣が農事に大功あるを認め、十二月に臘《ろう》と名づけて先祖を祭ると同日、※[#「※」は「むしへん+昔」、65−9]《さ》といって穀類の種神を祭り、農夫と督耕者と農に益ある禽獣を饗せしは仁の至義の尽なりと『礼記』に讃《ほ》めて居る、子貢《しこう》※[#「※」は「むしへん+昔」、65−11]を観る、孔子曰く賜《し》や栄《たのし》きか、対《こた》えて曰く一国の人皆狂せるごとし、賜その楽しさを知らざるなり、子曰く百日の※[#「※」は「むしへん+昔」、65−12]一日の沢、爾《なんじ》が知るところにあらざるなり、百日|稼穡《かしょく》の労に対しこの一日|息《やす》んで君フ恩沢を楽しむ、その休息日に農夫のみか有益禽獣までも饗を享《う》けたので、古の君子これを使えば必ずこれに報ゆ、猫を迎うるはその田鼠《でんそ》を食うがためなり、虎を迎うるはその田豕《でんし》を食うがためなり、迎えてこれを祭るなりとあって、野猪が田を荒らすを虎が防ぎくれるから虎を猫とともに特に祭ったので、わが邦で山の神お犬など呼んで狼を祀《まつ》り猪鹿が畑を荒らすを防ぐに似たり。
 しかしながら人間と猛獣と生活の縄張りが追々接近するに伴れその害を受くる事甚だしく、ついに専ら恐怖を懐《いだ》いて猛獣を神として祭り牲《いけにえ》してその害を避けんとするは自然の成り行きだ、『大英類典』インドの条にまた曰く「虎一たび人を食う癖が附くと殺害の夥しき事怖るべし、人を食う虎多くは老いて遠く餌を逐う能わざる奴で、食うためよりもただ多く殺すを目的とするらしい、一つの虎が百八人を三年間に殺し、また年に平均八十人ずつ殺した例がある、また一つの虎のために十三ヶ村人住まず二百五十方マイルために耕作|廃《すた》った事もあり、また虎一疋が一八六九年中に百二十七人を殺し官道絶ゆる事数週、たまたま英人来ってこれを殺した。これらいずれも古くかつ稀有の例だが、インド人が虎を怖れ種々迷信を懐くも最もなりと察するに足る」と。その動物崇拝の条には、ヒンズー教でシヴァとその妻ズルガ二神虎と縁あれど、虎崇拝は野民諸族に行わるといえり、普通にシヴァ像は虎を印号としその皮を腰巻とし、ズルガは右足を獅の背に乗す、ネパル国には虎祭り(バグ・ジャトラ)あり、信徒虎装して踊る、ハノイと満州にも虎神あり、インドのゴンド人はワグ・ホバを、クルク人はバグ・デオを奉ず、いずれも虎神だ、ビル人またワギア(虎王)を祀るにあるいは石塊あるいは虎像を拝す、一英人ビル族二人藪の隅の虎王族を詈るを立ち聞くと「此奴《こやつ》己《おれ》が豆と羮《あつもの》と鶏を遣ったに己の水牛を殺しやがった」、「己は鶏三羽と山羊《やぎ》一疋遣ったに己の児を捉えくさった、この上まだ何ぞ欲しいか破落戸《ごろつき》め」と喚《わめ》きおったと(バルフォール『印度事彙』三)。神もかくなりては日本の官吏同様さっぱり値打ちがねえ、インド、ニールゲリ山間にわずか八百人ほど残れるトダ人は、男子に毛が多い事その他アイヌ人に近いという、水牛を豢《こ》うて乳を取るを専務とする、その伝説に昔は虎が昼間水牛を守り夜になって退いた、しかるに一日腹|空《へ》る事甚だしくついに腹立つ事甚だし、職掌柄やむをえず夕方水牛を村へ連れ帰る途上、猫に逢うて餌肉を少し分けてくれと頼むと、猫笑って※[#「※」は「にんべん+爾」、67−6]《なんじ》ほどの愚物はあるまい、何故自分で番しおる水牛を啖《く》わぬかと言った、これまで毎夜村に寝た虎がその夕森に之《ゆ》き、夜中に村に入って水牛一つを盗みそれから毎《いつ》も水牛を食う事となった(リヴ@ースの『トダ人族篇』四三一頁)。この書に拠るに以前はトダ人が虎に逢うと礼し、またトダ婦人は虎が殺された時その前に膝突き自分の額を虎の鬚に触れたらしい、インドのサンタル人は虎の皮に坐して誓うを最も重大の誓いとす、これは和歌山で以前小児の誓言に親の頭に松三本と言うを親が聞いて何の事と分らずに非常に叱った、如《も》し誓いを渝《か》えたら親が死んで土に埋り腐って松三本生えるという意と聞いたごとく、サンタル人はもと虎を祖先と信じたのかと思う。『淵鑑類函』三二〇に『河図《かと》』を引いて五方の神名を列ね、西方|白帝神《はくていしん》名は白招拒《はくしょうきょ》、精を白虎《びゃっこ》と為《な》すといい、『文選』を見ると漢朝神虎殿あり、『山海経《せんがいきょう》』に崑崙山の神|陸吾《りくご》虎身九尾人面虎爪、この神天の九部と天帝の囿時《ゆうじ》を司ると見え、『神仙伝』(『淵鑑』二七に引く)に山陽の人東郭延、仙道成りて数十人虎豹に乗り来り迎う、親友に別れていわく崑崙山に詣るとあるから、崑崙山の神は虎と人の間種《あいのこ》ごときもので虎豹を使うたのだ、予往年南ケンシントン博物館の嘱託に依ってペレスフォード卿(?)が買うて来た道教諸神の像を竹紙へ密画極彩色にしたのを夥しく調べたが、竜と虎を神にしたのが甚だ多かった。『山海経』など見ると、上古から虎身とか虎頭とかの神や怪物が支那に満ちおったらしい、例せば『呂覧』に載せた和山の吉神|泰※[#「※」は「ころもへん+逢」、68−5]《たいほう》、状《かたち》人のごとく虎の尾出で入るに光あり、能く天地を動かし雲雨を興す、小説『西遊記』などに虎の怪多きを見て、いかに支那人が深く虎を不思議としたかが分る。スマトラ島人は死人の魂虎に托《よ》ると信じ、虎の名を聞くも畏敬する、したがって必死で正当防禦か親族友人が虎に殺された当場《そのば》へ行き合せた場合でなくんば、いかに重宝を受けても虎を討たぬ、欧人が虎捕らんとておとしを仕掛けると、夜分土人そこへ之《ゆ》き、虎に告げる体でこれは私らがしたんでない、全く我らの同意なしに毛唐人がしたのでござると言って帰るそうだ(マースデンの『スマトラ史』二九二頁)。ジャワでは虎人を苦しめぬ内は祖父《じじ》また老紳士と尊称してこれを崇《あが》める、多くの村に村虎一頭あり、村の某が死んで虎になったとその人の名を充《あ》てる、村人が獣を殺すと残肉を食い言わば村の掃除役だが、万一村の人畜を害《そこな》うと一同これを撃ち殺す(ラッツェル『人類史』一)。支那で※鬼[#「※」は「にんべん+長」、68−14]《ちょうき》と号《な》づけて虎に食われた人の霊が虎に附き添い人を導いて人を殺させ、また新しい死人の衣を解くと信じ、インドにもこの話あり(『日本及日本人』一月号二三二頁)。ランドの『安南民俗迷信記』に安南にもかかる迷信行われ、※鬼[#「※」は「にんべん+長」、68−16]が棄児の泣き声など擬《まね》して道行く人を虎のある所へ導き殺し、殊に自分の親や子の所へ虎を案内する、依って虎に食われた者の家には強勢な符を置いてこれを防ぎ、虎に殺された者の尸《しかばね》を一族の墓地に埋めぬとある、また正月ごとに林地の住民|豕《ぶた》一疋に村の判を捺《お》した寄進牒《きしんふだ》を添えて林中に置くと、虎が来て両《ふたつ》ながら取り去る、しからざる時はその村年中人多く啖わるとある。
 それからアジアの民族中には虎をトテムと奉ずる者がある、例せばサカイ人に虎をトテムとするがある由(一九〇六年版スキートおよびプラグデン『巫来半島異教民種篇《ペーガン・レーセス・オヴ・ゼ・マレー・ペニンシュラ》』)。トテムとは、一人また一群一族の民と特種の物との間に切っても切れぬ天縁ありとするその物をトテム、その信念をトテミズムと名づくる、その原因については諸大家の学説|区々《まちまち》で今に落着せぬ(大正二年版『ゼ・ブリタニカ・イヤー・ブック』一六〇頁)。原因は判らぬが昔トテミズムが行われた遺風を察して、その民の祖先がトテムを奉じたと知り得る。すなわち虎を祖先と信じ虎を害《そこな》うを忌み、虎肉を食うを禁じ、虎を愛養したり、虎の遺物を保存したり、虎の死を哭《こく》したり礼を以て葬ったり、虎を敬せぬ者を罰したり、虎を記号|徽章《きしょう》したり、虎が人を助くると信じたり、虎の装を著《つ》けたり、虎の名を人に附けたりするはいずれも祖先が虎をトテムと奉じた遺風だ(ゴム『史学としての民俗学』二八三頁に基づく)。アジアの諸民族中にかかる風習が多いので、したがって虎をトテムとした者がすこぶる多かったと知れる、例せば支那に孔子と同時の人陽虎、高辛氏の子に伯虎・仲熊・叔豹・季貍などある、本邦には虎を産せぬが虎を名とする人が多い、これは生まれ年の寅に因んでの事でトテムとして奉じたんでない、清正《きよまさ》幼名虎之助に頓着《とんじゃく》なく虎を討った、大磯の虎なども寅年生まれだったと伝う、高麗には虎を産し、したがってトテムとしたものか虎が人を助けた談がある、『日本紀』二四に皇極帝四年四月、〈高麗《こま》の学僧ら言《もう》さく、「同学|鞍作得志《くらつくりのとくし》、虎を以《も》て友として、その術《ばけ》を学び取れり。あるいは枯山《からやま》をして変えて青山にす。あるいは黄なる地《つち》をして変えて白き水にす。種々《くさぐさ》の奇《あや》しき術、殫《つく》して究むべからず。また、虎、その針を授けて曰く、慎矣慎矣《ゆめゆめ》、人をして知らしむることなかれ、ここを以て治めば、病《やまい》愈えずということなし、という。果して言うところのごとくに、治めて差《い》えずということなし。得志、恒《つね》にその針を以て柱の中《うち》に隠し置けり。後に、虎、その柱を折《わ》りて、針を取りて走|去《に》げぬ。高麗国《こまのくに》、得志が帰らんと欲《おもtう意《こころ》を知りて、毒《あしきもの》を与えて殺す」ともうす〉、これは虎をトテムとし祀る巫《かんなぎ》が虎装して針医を兼ねたのだろ、支那でも東晋の李嵩涼州に牧だった時、微行すると道側の虎たちまち人に化けて西涼君と呼んだ、弧《きゆみ》で射ようとすると汝疑うなかれといいながら前《すす》み来て、この地に福がない、君の子孫は西涼の王となるはず故|酒泉《しゅせん》に遷都せよと勧めて去った、すなわち酒泉に奠都《てんと》し西涼国を立てたという、これも相人《そうにん》が虎装しおったのだろ。『本草綱目』等に言える※虎[#「※」は「むじなへん+區」、70−14]《ちゅこ》、英語でウィヤーマン、※[#「※」は「むじなへん+區」、70−14]人また※氓[#「※」は「むじなへん+區」、70−15]《ちゅぼう》、英語でウィヤータイガー、前者は虎人に化け後者は人虎に化けるのだ、支那、インド、マレー半島その他虎の産地には大抵この俗信が存する、わが邦にも道照《どうしょう》入唐して役行者《えんのぎょうじゃ》が化けた虎を見たと伝う、とにかくトテミズムと※人[#「※」は「むじなへん+區」、71−1]※虎[#「※」は「むじなへん+區」、71−1]の迷信が虎崇拝のただ二つの原因たらぬまでもそれに大扶助を与えたのだ、支那では人ばかりか枢星《すうせい》の精も虎と為《な》るという。
 支那の神仙が虎を使い物とした例は『列仙伝』などに多いが、ギリシアの酒の神ジオニソスは梟《ふくろう》を忌み、江豚《いるか》・蛇・驢《うさぎうま》・虎・山猫《リンクス》・豹を愛す(スミス『希臘羅馬人伝神誌字彙《ジクショナリー・オヴ・グリーク・エンド・ロマン・バヨグラフィー・エンド・ミソロジー》』巻一)。古伝にこの神インドを征服したというから虎を愛するはずだ、インドへ出立前に秘儀を女神キベレーより授かる、キベレーは獅を使い物とす、生まれて棄てられ豹に哺《はぐく》まれて育ったという。虎が神仏冥理のため悪人を罰した例も多い
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