ハほど登りあるを見た、これらはしかるべく観察を続けたらこの藻がどれほどの速力で高地へ登るという事も知れ、ひいてこの辺の山が出来た年数なども分り、学術上非常に有益な事と思うたが、その地に永く留まり得ないで研究を中止した、また件の手水鉢中の水が血を注いだように黝《くろ》赤いので鏡検すると、従来予が聞いた事なき紅色の双鞭藻《ジノフラゲラタ》で多分新種であろう。双鞭藻は黄褐また緑を常色とする、ベーンの説に葉の色の緑なるは何故と問うと葉緑素《クロロフィル》を含んで居るからと言うて説明が済んだと思う人が多いが、葉緑素の字義が葉を緑に彩る物だから葉緑素を含んで葉が緑色に見えると言うは葉が緑だから緑に見えるというに当り適切な説明でない、葉中に日光を受けて炭酸から炭素を取る力ある物を含むその物の色が緑ゆえ葉が緑に見えると言うと初めて説明になるとあった。いわゆる開明した人々が何の訳も心得ずに奇異の現象を見ては電気の作用だ、不思議な病症を見ては神経の作用だと言い捨つるは実際説明でなく解らぬと自白するに同じ、諸国の俗伝にちょっと聞くと誠に詰まらぬ事多くあるを迷信だと一言して顧みぬ人が多いが、何の分別もなく他を迷信と蔑む自身も一種の迷信者たるを免れぬ。したがって古来の伝説や俗信には間違いながらもそれぞれ根拠あり、注意して調査すると感興あり利益ある種々の学術材料を見出し得るてふ事を摩訶薩※[#「※」は「つちへん+垂」、52−13]王子虎に血を施した話の序《ついで》に長々しく述べた訳じゃ。
 唐義浄訳『根本説一切有部毘奈耶破僧事《こんぽんせついっさいうぶびなやはそうじ》』巻十五に昔|波羅※斯[#「※」は「やまいだれ+尼」、52−14]《はらなし》城の貧人山林に樵して一|大虫《とら》に逢い大樹に上ると樹上に熊がいたので怕《おそ》れて躊躇《ためら》う。熊愍れみ来ってその人を引き上げ抱いて坐る、大虫熊に向いその人は恩知らずだ、後必ず汝を害せん擲《な》げ落して我に食わせよ食い得ぬ内は去るまじと言う、熊我いかでか我を頼む者を殺すべきとて聴き入れず、熊かの人に向い我汝を抱きて疲れたり暫く睡《やす》む間番せよとて睡《ねむ》る、大虫|樵人《きこり》に向い汝いかにするも樹上に永く住《とどま》り得じその熊を撞《つ》き落せ我|※[#「※」は「くちへん+敢」、53−3]《く》うて去らんと言う、樵夫《きこり》もっともと同じて恩を忘れ熊を落して大虫に啖わせたがそれから発狂した、熊は仏の前身、恩知らずの樵夫は提婆達多《だいばだった》の前身だとあるが大虫は誰の前身とも説いていない。『中阿含経』十六に大猪《おおぶた》五百猪に王たり嶮難道を行くうち虎に逢う、虎と闘わば必定《ひつじょう》殺されん闘わねば子分輩に笑われんいかにすべきと念《おも》うて、虎我と闘わんと欲せば闘えしからざれば我に道を借せと言うと虎どもは闘うべし道は借さぬと答う、猪余儀なく虎|少《しばら》く住《とど》まり待て我祖父の鎧《よろい》を著《き》来って戦うべしとて便所に至り宛転《ころがり》て糞を目まで塗り往きて虎に向うと、虎大いに閉口し我まさに雑小虫を食わざるは牙を惜しめばなり、いわんやこの臭き猪に近づくべけんやと念いて猪に道を借すべし闘うを欲せずと言う、猪往き過ぎ顧みて虎を嘲り、〈汝四足あり我もまた四足あり、汝来り共に闘え、何の意か怖れて走る〉と呼ばわると、虎答えて曰く〈汝毛|竪《た》ちて森々たり、諸畜中に下極まる、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪うべからず〉、猪自ら誇りて曰う〈摩竭鴦二国、我汝と共に闘うと聞く、汝来りて我と共に戦え、何を以て怖れて走る〉、虎答う〈身毛を挙げて皆汚る、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えん〉、鷹は死しても穂を摘まずと本邦で言うごとくまた支那で虎豹を君子、豺狼を小人に比するごとくインドにも虎牙を惜しんで詰まらぬ物と争わぬと言う諺があったらしい。『四分律』九に善牙獅子、善搏虎と伴《とも》たり、一の野干《ジャッカル》ありて二獣の後を逐い残肉を食い生活せしが、何とか二獣を離間せんとて師子に告ぐらく、虎|毎《いつ》も我生処種姓形色力勢皆師子に勝る我日々好美食を得師子わが後を逐うて残肉を食うと言うと、それから虎にもかように告げて師子を讒《ざん》す、後二獣一処に集まり眼を瞋《いか》らして相視る、師子まず手で虎を打ち汝は何事も我に勝れりと説けりやと問うと、虎さては野干が我らを闘わすつもりと了《さと》り、我かつてかかる言を説かず、我らを離間せる者を除くべしとて野干を打ち殺したと出づ、シェフネルの『西蔵説話《チベタンテイルス》』(一九〇六年版)には昔林中に牝獅と牝虎各子一疋伴れたるが棲んだ、ある日獅の不在にその子|蕩《まよ》うて虎に近づいたので虎一度はこれを殺そうと惟《おも》うたが、自分の子の好侶と思い翻してこれを乳育《そだつ》る、牝獅帰って子が失せたるに驚き、探り行きて牝虎が乳呑ませ居るところへ来ると、大いに愕き逃げ出すを牝獅が呼び止め何と爾今《じこん》一処に棲んで※[#「※」は「にんべん+爾」、54−11]《なんじ》が不在には我が※[#「※」は「にんべん+爾」、54−11]の児を守り我不在にはわが児を※[#「※」は「にんべん+爾」、54−11]に託する事としようでないかというと、虎も応諾して同棲し、獅児を善牙、虎の児を善搏と号《な》づけ生長する内、母獣|両《ふたつ》ながら病んで臨終に両児を戒め、汝らは同じ乳を吸うて大きくなったから同胞に等し、世間は讒人で満ち居るから何分讒言に中《あ》てられぬよう注意せよと言って死んだ、善牙獅|毎《いつ》も※[#「※」は「鹿+章を上下に組み合わせる」、54−14]《ガゼル》を殺すと肉を啖い血を啜《すす》って直ちに巣へ帰ったが、善搏虎は※[#「※」は「鹿+章を上下に組み合わせる」、54−15]を殺すに疲るる事夥しく血肉を啖いおわって巣へ帰るに長時間を費やした、因って残肉を蔵《かく》し置き一日それを※[#「※」は「くちへん+敢」、54−16]《くら》って早く帰ると獅が今日汝何故早く帰るぞと問う、虎答うらくわれ貯え置いた肉を啖って事が済んだからだ、獅重ねて問う汝は残肉を貯うるか我は殺した物をその場で食い後へ貯うる事なしと、虎それは汝が強き故で我は弱いから残肉を貯えざるを得ぬと答えた、獅それは不便だ以後我と伴れて出懸くべしとて一緒に打ち立つ事とした、従来善牙獅の蹤《あと》を追い残肉を食い行く性悪の一老野干あり、今虎が獅と連れ行く事となって自分の得分ェ乏しくなったのを憾《うら》み離間策を案出し、耳を垂れて獅に近づきかの虎|奴《め》は毎度獅の残肉を食わさるるが嫌だから必ず獅を殺そうと言いおると告げると、獅野干にその両母の遺誡を語り已後《いご》かかる事を言うなと叱った、野干獅我が忠告を容れぬから碌な事が起るまいと呟く、どんな事が起るかと問うと虎が巣から出て伸《のび》し欠《あくび》し四方を見廻し三たび吼えて汝の前に来り殺さんと欲する事疑いなしと言うた、次に野干虎を訪れ前同様獅を讒すると虎もまた両母の遺誡を引いて受け付けぬ、野干我が忠告を容れねば必ず兇事に遭わん獅|栖《す》より出て伸し欠し四方を見廻し三たび吼えて後汝の前に来り殺意を起すべしという、虎も獅も栖より起き出る時かようにするが癖だから今まで何とも気に懸けなんだが、野干の告げに心付いて注意しおると獅巣から出るとて右のごとく振舞う虎も起き出てかく動作した、各さては彼我を殺すつもりと気色立ったが獅心中に虎は我より弱きに我を殺さんと思い立つとは不思議だ、仔細ぞあらんと思い直し、虎が性質敏捷勢力最勝の我に敵せんとは不埒《ふらち》だと言うと、虎も獅子が性質敏捷勢力最勝の我に敵せんとは不埒だと言った、獅虎にかかる言を誰に聞いたかと詰《なじ》ると野干が告げたと答う、虎これを獅に詰るとやはり野干が告げたと答う、獅さてはこの者が不和の本元だと合点してやにわに野干を打ち殺したとある。また同書に同じ話の異態なものを挙げて牝獅が牝牛を殺し栖へ牽《ひきず》り往くと牛の乳呑児が母の乳を慕い追い来る、牝獅これをも殺そうと念《おも》うたが我子の善い遊侶と思い直し乳養して両《ふたつ》ながら育て上げ、死際《しにぎわ》に汝らは兄弟なり必ず讒誣《ざんぶ》に迷わされて不和を生ずるなと遺誡したが、前話同様野干の讒言を信用してどちらも反省せず相闘うて双《ふたつ》ながら死んだとある、わが邦で従来野干を狐の事と心得た人が多いが、予が『東京人類学会雑誌』二九一号三二五頁に述べたごとく全く狐と別で英語でいわゆるジャッカルを指《さ》す、梵名スリガーラまたジャムブカ、アラブ名シャガール、ヘブライ名シュアルこれらより転訛して射干また野干と音訳されただろう、『松屋筆記』六三に「『曾我物語』など狐を野干とする事多し、されど狐より小さきものの由『法華経疏』に見ゆ、字も野※[#「※」は「むじなへん+干」、57−4]と書くべきを省きて野干と書けるなり云々、『大和本草』国俗狐を射干とす、『本草』狐の別名この称なし、しかれば二物異なるなり」といい、『和漢三才図会』にも〈『和名抄』に狐は木豆弥《キツネ》射干なり、関中呼んで野干と為《な》す語は訛なり、けだし野干は別獣なり〉と記す、※[#「※」は「むじなへん+干」、57−7]の音岸また※[#「※」は「りっしんべん+干」、読みは「かん」、57−7]、『礼記』玉藻篇に君子|※[#「※」は「鹿+弭を上下に組み合わせる」、57−7]裘青※[#「※」は「むじなへん+干」、57−8]褒《べいきゅうせいかんのたもと》、註に胡地の野犬、疏に〈一解に狐犬に作る〉、狐に似た犬の意だろ、『爾雅』註に拠れば※[#「※」は「むじなへん+干」、57−9]は虎属らしい、『本草綱目』に※[#「※」は「むじなへん+干」、57−9]は胡地の野犬状狐に似て黒く身長七尺頭に一角あり老ゆれば鱗あり能《よ》く虎豹蛟竜銅鉄を食う猟人またこれを畏るとある、インドにドールとて群を成して虎を困《くる》しむる野犬あり縞狼《ヒエナ》の歯は甚だ硬いと聞く、それらをジャッカル稀に角ある事実と混じてかかる談が生じただろう。西北インドの俗信にジャッカル額に角あるはその力で隠形の術を行うこれを截《き》り取りてその上の毛を剃って置くとまた生えると(一八八三年『パンジャブ・ノーツ・エンド・キーリス』三頁)。テンネントの『錫蘭博物誌略《ゼ・ナチュラル・ヒストリー・オヴ・セイロン》』三六頁以下に著者この角を獲て図を掲げいわく、土人言うジャッカルの王のみ後頭に一角あり長さ僅かに半インチ毛茸に被わる、これを持つ者百事望みのままに叶いこれを失いまた窃《ぬす》まるるも角自ずと還る、宝玉と一所に蔵《おさ》むればどんな盗賊も掠め得ず、またこの角を持つ者|公事《くじ》に負けずとあって、毎度裁判に負け続けた原告がこの角を得て敵手に示すと、とても勝ち得ぬと臆して証言を改めたんで原告の勝となったと載す、とにかく周の頃すでに※[#「※」は「むじなへん+干」、58−3]てふ野犬が支那にあったところへジャッカル稀に一角ある事などをインド等より伝え、名も似て居るのでジャッカルを射※[#「※」は「むじなへん+干」、58−4]また野干と訳したらしい、『博物新篇』などには豪狗と訳しある、この野干は狼と狐の間にあるようなもので、性質すこぶる黠《ずる》く常に群を成し小獣を榛中に取り囲み逃路に番兵を配りその王叫び指揮して一同榛に入り駆け出し伏兵に捕えしむ、また獲物ある時これを藪中に匿しさもネき体《てい》で藪外を巡り己《おのれ》より強きもの来らざるを確かめて後初めて食う、もし人来るを見れば椰子殻《やしがら》などを銜《くわ》えて疾走し去る、人これを見て野干既に獲物を将《も》ち去ったと惟《おも》い退いた後、ゆっくり隠し置いた物を取り出し食うなど狡智百出す、故に仏教またアラビア譚等多くその詐《いつわり》多きを述べ、『聖書』に狐の奸猾を言えるも実は野干だろうと言う、したがって支那日本に行わるる狐の譚中には野干の伝説を多分雑え入れた事と想う、『今昔
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