ャ虫草の根に棲めるを集む、これかの尊者の非業の死を旌《あら》わすためにこの晨《あさ》のみ現ずる物の由、ノルウェー国では弟切草《おとぎりそう》の一種をバルズル神またヨハネ尊者の血で汚されたから今に根に赤点ありと言い伝え彼らの忌日に必ず現ずと信ず(フレンド、巻一、頁一一および一四七)。日本の「みずき」「やまぼうし」などと同属の木|血樹《コールヌイエー》はポリドーロスが殺されて化するところ故に毎《いつ》もその枝を折れば血を出すと古ギリシア、ローマ人が信じた、これはトロイ王プリアモス五十男五十女あった、第二妻ヘカベーだけにも十九男児を生ませた、ポリドーロスはその末男で父母の愛|最《いと》厚くトロイ攻めらるるに及び王この児に大金を添えてツラシア王ポリムネストスに預けた、しかるにトロイ陥った時ポリムネストス金が欲しさに委託された児を殺したが、後《のち》児の母ポリムネストスの眼を潰しまたその児二人まで殺して復讐したのだ(グベルナチス、巻二、サイツファート『希羅考古辞典《ジクショナリ・オヴ・クラッシカルアンチクイチス》』英訳一九〇八年版、五〇一頁)。熊野諸処の俗伝に猟犬の耳赤きは貴し、その先祖犬|山姥《やまうば》を殺し自分耳にその血を塗って後日の証としたのが今に遺《のこ》ったと言う、米国住黒人の談に昔青橿鳥その長子を鷹に攫《つか》み去られ追踪すれど見当らず憊《つか》れて野に臥す。微《かす》かに声するを何事ぞと耳を欹《そばだ》て驍ニ蚋《ぶゆ》が草間を飛び廻って「かの青橿鳥は何を苦にするぞ」と問うに「彼の初生児を鷹に捉られた」と草が対《こた》う、蚋「汝は誰に聞いたか」、草「風に聞いたから本当に風聞ちゅう物だ」、蚋「その鷹はどこにいる」、草「シカモールの古木に巣くいいる」、蚋「なぜ青橿鳥は鷹に復讐せぬじゃろか」、草「彼奴《あいつ》も他諸鳥同様鷹を怖ろしいからだ」、これを聞きいた草間の虫ども、鷹に敵する鳥はない橿鳥とても児で足らぬ時は自分も鷹の餌となるを懼るるんだと言い囃す、青橿鳥これを聞いて無明の業火直上三千丈、たちまち飛んで古木のシカモール樹に至ると鷹すでに橿鳥の児を喫《く》いおわり不在だったが、巣に鷹の児があったのをことごとく殺した、その時親鷹還り来るを見るより青橿鳥騎馬様にその背に乗り夥しく啄《つつ》きまた掻き散らした、傷から出た血が乾いて今まで鷹羽に条《すじ》や斑となって残ったとある(オエン『老兎巫蠱篇《オールド・ラビット・ゼ・ヴーズー》』一三六頁)。高木敏雄君の『日本伝説集』を見ると三人の児に留守させ寺詣りした母親を山姥が食い母親の仮《まね》してその家に入り末の子を食う、二児その山姥たるを知り外に出で桃の樹に上り天を仰いで呼ぶと天から鉄の鎖が下る、それに縋《すが》って登天す、これに倣うて山姥も天を仰いで呼ぶと腐った縄が下る、それに縋って上ると縄切れ山姥高い処から蕎麦《そば》畑に落ち石で頭を破《わ》って死んだ、その血に染まって蕎麦の茎が今のごとく赤くなったという天草の俚話がある。今一つ出雲に行わるる譚とて黍《きび》の色赤き訳を説きたるは、天保元年|喜多村信節《きたむらのぶよ》撰『嬉遊笑覧』九に載せた瓜姫《うりひめ》の咄《はなし》の異態と見える。「今江戸の小児多くはこの話を知らず、老父老嫗あり、老父は柴を苅りに山に行き老嫗は洗濯に川へ行きたりしに、瓜流れ来りければ嫗拾い取りて家に帰り、老父に喰わせんとて割りたれば内より小さき姫出でたり、美しき事限りなし、夫婦喜びて一間の内に置く、姫生い立ちて機《はた》を織る事を能くして常に一間の外に出でず、ある時庭の木に鳥の声して瓜姫の織りたる機の腰に天《あま》の探女《じゃく》が乗りたりけりと聞えければ、夫婦怪しと思いて一間の内に入りて見るに、天の探女姫を縄にて縛りたり、夫婦驚きてこれを援け天の探女を縛り、此女《こやつ》薄《すすき》の葉にて鋸《ひ》かんとて薄の葉にて鋸きて切り殺しぬ、薄の葉の本に赤く色附きたるはその血痕なりという物語田舎には今も語れり、信濃人の語るを聞きし事あり」と信節の説だ。出雲に行わるるところは大分これと異《ちが》い爺と媼と姫を鎮守祠に詣らせんとて、駕籠《かご》買いに出た跡に天探女《あまのじゃく》来り、姫を欺き裏の畑へ連れ行きその衣服を剥ぎ姫を柿の木に縛り、自ら姫の衣服を着て爺媼が買うて来た駕籠に乗り祠に詣らんとする時木に縛られた姫泣く、爺媼|欺《だま》されたと感付き天探女の首を鎌で打ち落し裏の黍畑に棄てた、その血で黍の色赤くなったという。前の咄《はなし》に薄の葉で鋸き殺すとあるに似た例、『西域記』十に竜猛菩薩|※薩羅国[#「※」は「りっしんべん+喬」、47−14]《こさらこく》の引正王に敬われ長寿の薬を与えたので王数百歳経ても死なず、多くの子孫がお先へ失礼するを見て王妃がその穉子に説いて竜猛生きいる内は王死なず、汝王たるを望まば所用ありとて竜猛にその頭を求めよ慈悲深厚な菩薩故決して辞まぬだろと勧めた、穉子寺に詣り母の教えのごとく如来の前生身を授けて獣に飼い肌を割《さ》いて鴿《はと》を救うた事など例多く引いて、我求むるところありて人頭を用いたいが他人を殺すと罪重ければ死を何とも思わぬ菩薩の頭をくれぬかと要せられ、さすがの一切智人も婦女の黠計《かっけい》に先を制せられて遁《のが》れ得ず、いたずらに我が身終らば汝の父もまた喪わん事こそ気懸りなれといって、手許に兵刃がないからあり合せの乾いた茅葉で自ら頸を刎《は》ねると利剣で断《き》り割くごとく身首処を異にし、王聞きて哀感しまた死んだと出づ。いわゆる茅《かや》の葉は多分梵名|矩奢《クシャ》、支那で上茅と訳する草の葉だろう。本邦で茅を「ち」と訓じ「ち」の花の義で茅花を「つばな」と訓《よ》む、「ち」とは血の意で昔誰かが茅針《つばなのめ》で足を傷め血がその葉を染めて赤くしたと幼時和歌山で俚伝を聞いたが確《しか》と記《おぼ》えぬ。また『西域記』十二に古《いにし》え瞿薩旦那《くさたな》国王数十万衆を整えて東国の師百万を拒《ふせ》ぎ敗軍し、王は虜《いけど》られ将士|鏖《みなごろし》にさる、その地数十|頃《けい》血に染みて赤黒く絶えて蘗草《くさ》なしと見ゆ、南インド、マドラスの少し南マイラブルは今日英領だが徳川氏の初世はポルトガルに隷《つ》きサントメと呼んだ、したがってそこから渡した奥縞を桟留機《さんとめおり》とも呼んだ、キリストの大弟子中|尊者《サン》トメ最も長旅し、メデア、ペルシア、大夏《バクトリヤ》、インド、エチオピアまた南米までも教化したと言う、いわゆる南インドの尊者《サン》トメ派は唐代に支那に入った景教と同じくネストリウスの宗見を奉ずる故、同じキリスト教ながら新教旧教またギリシア教より見れば教外別伝の概あり、一六七六年マドリッド版ナヴァワッテの『支那歴史道徳論《トラタドス・ヒストリフス・デラ・モナルチア・デ・チナ》』八六頁に尊者《サン》トメ支那に往けり、後世これを崇めて達磨と称うとしばしば聞いたと筆せるはトメと達磨《タマ》と音近く『続高僧伝』等皆達磨を南天竺から支那へ来たとしたかららしい、尊者《サン》トメ山とてその終焉の蹟現存す、けだし尊者マイラプル王の怒りに触れ刑されて死んだとも孔雀を狩る土人に誤殺されたとも伝う、十三世紀のマルコ・ポロ紀行にいわく尊者の墓へキリスト回々《フイフイ》二教の徒夥しく詣り尊者殺された処の土色赤きを採り帰って諸種の病人に水服せしも効験|灼然《いちじるし》と、十六世紀にジョアン・デ・バルロス記すらく、尊者最期に踏んでいた石に鮮血迸り懸りたるが今にあり、少時前に落ちたとしか見えぬほど生々しいと、一八九〇年版クックの『淡水藻序説《イントロダクション・ツー・フレッシュ・ウォーター・アルゲ》』第十二章に一〇六六年英国最後のサクソン王ハロルド、ノルマン人とヘスチングスに戦い殪《たお》れた、そこに雨後必ず赤くなる地あり、これ死人の怨恨により土が血の汗を出すのだというが、実は学名ポーフィリジゥム・クルエンツムてふ微細の藻が湿地に生じ、晴れた日は乾いて黒いが雨ふれば凝《かたま》った血のように見えるのだと述べ居る、この藻は和歌山市の墓地などに多く、壁などに大小種の斑点を成して生えるとちょうど人が斬られて血が迸ったごとく見える、予年来奇異の血跡など称うる処を多く尋ね調べたがあるいは土あるいは岩石の色が赤いのもありまた種々の生物で血のように見えるのもある、詳しく論じても一汎《いっぱん》読者には何の面白くもなきこと故、ただ一つ述べ置くは藻を青、緑、褐、紅と四色の類に分かつ、青緑褐の藻群には鹹水に生ずるものも淡水に産するものも多いが紅藻の一群およそ二百属のうち淡水に産するは甚だ少なく、属中の諸種ことごとく淡水にのみ生ずる紅藻ただ七属、そのうち四属は日本にもある、このほかに属中の多種は海にばかり生ずるが一種また二、三種は淡水に産する紅藻六属ある、ヒルデプランチアョの数種は本邦諸方の磯に産し鹹水下の岩面に薄く堅い皮となって固著しまるで紅い痣《あざ》のようだ、しかるに十二年前予那智の一の滝下および三の滝上で浅い急流底の岩面が血を流したように赤きを見最初はその岩に鉄分ある故と思うたが念のため採り帰って精査するとヒルデプランチア・リヴラリスてふ紅藻だった、その後熊野|十津《とつ》川から日高奥の諸山地で血の附いたような岩が水辺にあるを見るごとに検査すると多くは同じ紅藻だった、この藻は欧州にはアルプス地方その他より古く知れ居るが米国には三十年ばかり前予留学した頃はただ一処しか産地がなかった、那智ごとき不便の地に久しく独居すると見聞が至って狭く山※[#「※」は「けものへん+噪の右側部分」、50−9]《やまわろ》ごときものとなるがそれと同時に考察の力が鋭くなりしたがって従来他から聴いたり書で読んだりせなんだ問題を自ずから思い浮かぶ事が多い、紅藻属種の最も多くは海に限って産しヒルデプランチア属の他の諸種は皆海に生ずる、このリヴラリスの一種のみ深山高地の急流底に生ずるから推すとこの一属は太古高山に創生して追々海へ繁殖したものでなく、昔海だった処が漸々隆起して陸となり山となったに伴《つ》れて当時磯に生えおったこの藻も鹹水住居を淡水に振り替えて渓流で存命《いきなが》らえある一種となったか、ただしは初め海にのみ生じたものが漸々川へ滝を伝うて高山に登ったかでなければならぬ、然るところ昔海だった証左のまるでない高山にもこの藻がありかつ風で運ばれ行くべき性質のものでないからどうしても海から山へ登ったと判ずるのほかない、十一年前予紀州|西牟婁《にしむろ》郡|朝来《あつそ》沼で丁斑魚にミクソネマ・テヌエてふ緑藻が託生せるを見出したが三、四年経てアイルランドで同じ藻が金魚に著《つ》きいるを見出した人があった(一九〇八年十一月の『ネーチュール』七九巻九九頁、予の「魚に著くる藻」を見よ)。生来この藻は流水や噴泉で不断|盪《あら》わるる処に生えるがその胞子が偶然止水中に入って困《くる》しんだ余り一計を案じ魚に託生してその魚が游《およ》ぐとちょうど生活に必要なほどな振動を受け動水中にあると同然に活きいたのだ。それと等しくヒルデプランチアも元海に生えたが繁殖の余勢で淡鹹両水の雑《まざ》った江に侵入しそれから高地の急流や滝が岩を打つ勢いちょうど海波が磯を打つに均《ひと》しき処に登って生存し居るらしい、濠州辺で鮫が内地の淡水湖に進入したりインドや南米に川にばかり棲む鯨類があるような事だ、さてこのヒルデプランチアの胞子は多くの緑藻や褐色藻の胞子と異なり自ら游いで適当の地に達し得るものでないので、海から高地まで登るに胞子は急流で洗い落とされほとんど無用だ。その故か予は岩壁生のこの藻に胞子あるを見た事がなく、普通に藻の細胞体から芽を出し拡げて殖え行くのだ、大和北山の田戸附近ですこぶる高い滝の下方からこの藻が二丈ばかり登り懸けたのが極めて美観だったのを見た、また那智で一丈四方ほどの一枚|巌《いわ》全くこの藻を被《かぶ》りそれから対岸の石造水道を溯って花崗石作りの手水鉢《ちょうずばち》の下から半
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