、げ》を雨《ふら》さんと言うに、声に応じて曼陀羅花降り下り大地震動と来た、太子すなわち鹿皮衣を解きて頭目を纏い、合手して身を虎の前に投じ母虎これを食うて母子ともに活《い》くるを得た、王夫人の使|飲食《おんじき》を齎し翌日来ってこの事を聞き走り帰って王に報じ、王人をして太子の骨を拾わせ舎利を取って平坦地に七宝塔四面縦貫十里なるをNし四部の妓人をして昼夜供養せしめたとあるから芸者附きの大塔で、この塔今もあり癩病等の重患者貴賤を問わず百余人常に参籠《さんろう》す、身を虎に施した太子はわが先身、師の仙人はわが次に成道《じょうどう》すべき弥勒菩薩だ、われ衆生を救うため身を惜しまなんだから、昔時以来常に我師たりし弥勒に先だつ事九劫まず成道したわやいと仏が説かれた、『大智度論』にはこの時太子の父母子を失って目を泣き潰したとあって、父母を悩ませ虎にも殺生罪を獲せしめたは不都合ながら、自分の大願を満たすため顧みなんだと論じ居る。また古インドに自撰《スワヤムヴヤラ》とて多くの貴公子を集め饗応した後王女をしてその間を歩かせ、自分の好いた男に華鬘《けまん》や水を授けて夫と定めしめた、『ラマヤナム』にミチラ王ジャナカ婿を定めんとて諸王子を招き競技せしめた時、ラマ強弓を彎《ひ》いたので王の娘シタがこれを夫と撰定したとある、仏悉達太子と言った時瞿多弥釈女が自撰の場へ行くと、釈女五百の釈種童子を嫌うて太子を撰んで夫とした、仏最初得道の時優陀夷その因縁を問いしに仏答えていわく、昔雪山下に雑類無量無辺の諸獣ありて馳遊す、かの獣中に一つの牝虎あり端正無双諸獣中に比類するものなし、諸獣その夫たらんと望む、相いいて曰く汝ら且《しばら》く待て共に相争うなかれ、かの牝虎の自選を聴《ゆる》せと、時に一牛王あり牝虎に向いて偈《げ》を説く、〈世人皆我の糞を取り持ち用いて地に塗りて清浄と為す、この故に端正なること※[#「※」は「うし+孛」、読みは「うし」もしくは「めうし」、40−2]虎に賢《まさ》れり、まさに我を取りて以て夫と為すべし〉、牝虎答うらく〈汝項斛領甚だ高大、ただ車を駕しおよび犁《すき》を挽くに堪えたり、いかんぞこの醜き身形をもてたちまち我がために夫主とならんと欲するや〉、また一大白象あり牝虎に向いて偈を説く、〈我はこれ雪山の大象王なり、戦闘我を用いて勝たざるなし、我既にこの大威力あり、汝今何ぞ我が妻とならざるや〉、押しの強い言いぶりだ、牝虎偈を以て答えていわく〈汝もし師子王を見聞せば、胆|※[#「※」は「『龍』と『言』を上下に組み合わせる」、40−7]《おそ》れ驚怖し馳奔走し、屎尿を遺失して虎籍し去らん、いかんぞ我が夫たるを得るに堪えんや〉、爾時《そのとき》かの中に一師子あり諸獣の王なり、牝虎に向いて偈を説いていわく、〈汝今我が形容を観よ、前分闊大に後繊細なり、山中に在りて、自ら恣活し、また能く余の衆生を存恤す、我はこれ一切諸獣の王なり、更に能く我に勝つ者あることなし、もし我を見および声を聞くことあれば、諸獣|悉皆奔《ことごとくはし》りて住《とどま》らず、我今かくのごとく力猛壮、威神甚だ大にして論ずべからず、この故に賢虎汝まさに知るべし、すなわち夫のために婦となるべきを〉、時にかの牝虎師子に向って答うらく〈大力勇猛および威神、身体形容ことごとく端正、かくのごとく我れ今夫を得|已《おわ》れり、必ずまさに頂戴して奉承すべし〉、かくて師子が虎の夫と定まった、かの時の師子は我が先身、牝虎は今の瞿多弥女、他の諸獣は今の五百釈童子瞿多弥の肱鉄を受けた奴輩だと仏が説かれた。
 (大正三年一月、『太陽』二〇ノ一)

 玄奘の『大唐西域記』巻三に、北インド咀叉始羅《たつさしら》国の北界より信度《しんど》河を渡り東南に行く事二百余里大石門を度《わた》る、昔|摩訶薩※[#「※」は「つちへん+垂」、41−4]《まかさった》王子ここにて身を投げて餓えたる烏菟《おと》を飼えりとある、仏国のジュリアン別に理由を挙げずに烏菟を虎と訳したが、これは猫の梵名オツを音訳したんだろとビールは言われた、しかしながら前篇に述べた通り虎を『左伝』に於菟とし、ほかにも烏※[#「※」は「きへん+「澤」のさんずいを取った字」、41−6]《おと》(『漢書』)、※[#「※」は「虎+鳥」、41−7]※[#「※」は「虎+兔」、41−7](揚雄『方言』)など作りあれば、烏菟は疑いなく虎の事でその音たまたま猫の梵名に酷《よ》く似たのだ。それから『西域記』に王子投身の処の南百四、五十歩に石|※堵波[#「※」は「あなかんむり+卒」、41−8]《そとば》あり、摩訶薩※[#「※」は「つちへん+垂」、41−9]王子餓獣の力なきを愍み行きてこの地に至り乾ける竹で自ら刺し血を以てこれに啖《くら》わす、ここにおいてか獣すなわち啖うその中地《ところ》土および諸草木|微《すこ》しく絳色《こうしょく》を帯び血染のごとし、人その地を履《ふ》む者|芒刺《いばら》を負う、疑うと信ずるとをいうなく、悲愴せざるはなしと出づ。玄奘より二百余年前渡天した法顕の紀行にも竺刹尸羅《たくちゃしら》国で仏前生に身を捨て餓虎に施した故蹟に諸宝玉で餝《かざ》った大※堵波[#「※」は「あなかんむり+卒」、41−13]あり、隣邦の王公士民競うて参詣し捧げ物多く花を撒き燈を点《とも》して間断《たえま》なしと見ゆ。結局《つまり》前出『投身餓虎起塔因縁経』もこの故蹟に附けて出来た伝説らしい。それに後日更に一話を附け加えてその近処の土や草木が赤く地に芒刺多く生えたるに因んで王子身を虎に施す前に自分の血を出して彼に与えたと作ったんだ。近年カンニンガム将軍この捨身処《マニーキヤーラ》の蹟を見出したが土色依然と赤しという(一九二六年ビール訳『西域記』巻一、頁一四六)。すべて何国でも土や岩や草花など血のように赤いと血を流した蹟とか血滴《ちのしたたり》から生えたとか言い囃《はや》す、和歌山より遠からぬ星田とかいう地に近く血色の斑《ふち》ある白い巌石連なった所がある、昔|土蜘蛛《つちぐも》を誅した古蹟という、『日本紀』七や『豊後風土記』に景行帝十二年十月|碩田国《おおきたのくに》に幸《みゆき》し稲葉河上に土蜘蛛を誅せしに血流れて踝《つぶなき》に至るそこを血田というとあるのも土が赤かったからの解説《いいわけ》だろ、支那の『易経』に〈竜野に戦うその血元黄〉、これまた野の土や草が黄色の汁で染めたようなを竜が戦うた跡と見立てたらしい、英国ニューフォレストの赤土は昔ここで敗死した嗹人《デーンス》の血で色付いたと土民信じ、ニュージーランドのマオリ人がクック地峡の赤い懸崖を古酋長の娘の死を嘆いて自ら石片で額を傷《やぶ》った血の染まる所と伝えるなど例多くタイラーの『原始人文篇《プリミチヴ・カルチュル》』一に載せ居る。沙翁《シェキスピヤ》好きの人は熟知の通りギリシアの美少年アドニス女神ヴェヌスに嬖《へい》されしをその夫アレース神妬んで猪と現われ殺した時ヴェヌス急ぎ往《ゆ》いて蜜汁をその血に灑《そそ》ぐとたちまち草が生えた、これをアドニスと号《な》づけわが邦の福寿草と同属の物だが花が血赤い、さてパプロスに近い川水毎夏|漲《みなぎ》り色が赤くなるをアドニス最後の血が流れると古ギリシア人は信じた、またアキスは女魅ガラテアに愛されたが、円眼鬼《チクロプス》ポリフェムス嫉み甚だしく大岩で彼を圧殺し血|迸《はし》り出るをガラテアがエトナ山下のアキス川に化したという。実はこの小河が岩下より出る故作り出した話だろ(スミス『希臘羅馬人伝神誌字彙《ジクショナリ・オブ・グリーク・エンド・ローマン・バヨグラフィー・エンド・ミソロジー》』巻一)。アキスてふ草花また彼の血から生えた今欧州諸方に生ずる花藺《はない》の事だ(グベルナチス『植物譚原《ミトロジー・デー・プラント》』一)。サラミスの長人《せいたか》アヤース、ギリシア軍のトロイ攻めに武勇抜群だったが敵味方ともオジッセウス戦功無双と讃めしを憾《うら》み自殺した、その血から紫の百合|花葩《はなびら》にアイ、アイとその名の頭字を現わし兼ねて嗟息《といき》吐く声を表わした(スミス同前)。ドイツで薔薇をアドニス花《ブルーメ》と呼ぶは、アドニス殺された折りヴェヌス嘆き男の尸《しかばね》から血一滴下るごとに女神の眼から涙一点落ち血は薔薇涙はアドニス花となった故とか、一説に爾時《そのとき》女神急ぎ走りて刺《とげ》で足を傷《いた》め元白かった薔薇花を血で汚して紅色にしたと、しかればスペンサーも「薔薇の花その古は白かりき、神の血に染み紅く咲くてふ」とやらかした、回教徒伝うらく回祖《マホ<bト》天に登る際額の汗|堕《お》ちて白薔薇、他の所より落した汗が黄薔薇となったと、また古ギリシア人伝えたはヘーラ睡れる間その夫ゼウス幼児ヘラクレス(ゼウス神、チーリンスの王アムフィトリオーンが軍《いくさ》に往った不在に乗じかの王に化けその後アルクメーネーに通じ生むところ、故にヘラクレス人間《じんかん》に住んだうち常にヘーラに苦しめらる)をしてヘーラの乳を吮《す》い不死の神力を禀《う》けしめた、ところが吮う力余り強かったので乳出過ぎて口外に落ち百合となったとも銀河となったともいう、その百合の花非常に白きを嫉んでヴェヌス女神海波の白沫より出現し極浄無垢の花の真中に驢《うさぎうま》の陽根《いちもつ》そのままな雌蕊《めしべ》一本真木柱太しく生《はや》した、しかしその無類潔白な色を愛《め》で貞女神ヘーラまたジュノンおよびスベスの手にこの花を持つ、それと同時に件《くだん》の陰相に因んで好色女神ヴェヌスと婬鬼サチレスもこの花を持つ(グベルナチス、巻二)。ここに言える百合は谷間百合《リリス・オブ・ヴァレー》(きみかげそう)だともいう、耶蘇《やそ》徒は聖母がキリストに吮わせた乳少々地に堕ちてこの草になったと伝う(ベンジャミン・テイロール『伝説学《ストリーオロジー》』第九章)。紀州田辺近き上芳養《かみはや》村の俗伝に弘法大師筆を馬蓼《いぬたで》の葉で拭うた、自来この草の葉に黒斑|失《う》せずとて筆拭草と呼ぶ、『淵鑑類函』二四一に『湘州記』いわく〈舜蒼梧の西湖に巡狩す、二妃従わず、涙を以て竹を染む、竹ことごとく斑となりて死するなり〉、また『博物志』に〈洞庭の山帝の二女啼き、涕を以て竹に揮い竹ことごとく斑なり、今|下雋《かしゅん》に斑皮竹あり〉、わが邦の虎斑竹のごとく斑ある竹を堯の二女娥皇と女英が夫舜に死なれて啼《な》いた涙の痕としたのだ、英国などの森や生垣の下に生える毒草アルム・マクラツムはわが邦の蒟蒻《こんにゃく》や菖蒲とともに天南星科の物だ、あちらで伝うるはキリスト刑せられた時この草|磔柱《たっちゅう》の真下に生えおり数滴の血を受けたから今はその葉に褐色の斑あると(フレンド『花および花譚《フラワース・エンド・フラワーロワー》』巻一、頁一九一)。英国ダヴェントリー辺昔|嗹人《デーンス》敗死の蹟に彼らの血から生えたという嗹人血《デーンス・ブラッド》なる草あり、某の日に限りこれを折ると血出ると信ぜらる、これは桔梗科のカムバヌラ・グロメラタ(ほたるぶくろの属)の事とも毛莨《きんぽうげ》科のアネモネ・プルサチラ(おきなぐさの属)の事ともいう(同上、頁三一五。一九一〇年十二月十七日『ノーツ・エンド・キーリス』四八八頁)。アルメニアのアララット山の氷雪中に衆紅中の最紅花、茎のみありて葉なきが咲くトルコ人これを七兄弟の血と号《な》づく(マルチネンゴ・ツェザレスコ『民謡研究論《エッセイス・イン・ゼ・スタジー・オヴ・フォーク・ソングス》』五七頁)。わが邦の毒草「しびとばな」も花時葉なく墳墓辺に多くある故|死人花《しびとばな》というて人家に種《う》うるを忌む(『和漢三才図会』九二)というが、この花の色がすこぶる血に似ているのでかく名づけたのかも知れぬ、『説文』に拠ると今から千八百余年前の支那人は茜草を人血の所化《なるところ》と信じた、ドイツ、ハノヴワルの民ヨハネ尊者誕生日(六月二十四日)の朝近所の砂丘に往き学名コックス・ポロニカとて血の滴り様に見ゆる
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