「※」は「さんずい+肥」、19−10]の敗を致し以て亡国に至れり、これ豈《あに》景略(王猛の字)の匹《ひつ》ならんや、処士虚声を盗む何代《なんのよ》か人なからんと王阮亭は言った(『池北偶談』巻二)。ちょうど虎豹が林沢におれば威あり、幽棲を去って人に近づくと三文の値もなくなるに似たり、インドでは欧州と等しく獅《しし》を獣王とす、仏を獅に比べた文諸経に多い、たとえば隋訳『大集譬喩王経』上にいわく、仏言う舎利弗《しゃりほつ》譬《たと》えば須弥山《しゅみせん》王金色辺あり、もし諸鳥獣その辺に至らば皆同一色いわゆる金色なればすなわち師子《しし》獣王と同色なり、諸鳥獣既に師子と同一金色なりといえどもその力勢功徳名称ことごとく師子王と等しからず、またまた師子獣王遊戯するにしきりに無畏吼声を発するごとくならずとて、コ聞《しょうもん》と独覚が多少如来に似たところあるもその間全く懸隔しいるに喩《たと》えある。玄奘《げんじょう》が訳した『大毘婆娑論』巻百三に菩薩菩提樹下に修道する所に魔王攻め来る、菩薩念ずらく魔軍鳥形を作《な》し来らば我れ猫狸形を作して敵せん、魔軍猫狸形を作し来らば我れ狗狼形を作して敵せん、魔軍狗狼形を作し来らば豺豹形、豺豹形で来らば虎形、虎形で来ると師子形、師子形で来るなら竜鱗を化作し竜鱗で来たら猛火、猛火で来たら暴雨、暴雨で来たら大蓋を化作してこれに敵せんと、鳥に初まって大蓋に至るその間|逓次《ていじ》後者が前者より強い、しかして虎より獅、獅より竜鱗、それから火、次に雨、次に蓋が一番強いとしているが、蓋は鳥に啄き破らるべきものだからこの目次中の最強者が最弱者より弱い事となる。想うに一九《いっく》などの小説にしばしば繰り返された一話はこの仏語より来たんでないか、いわく猫を畜《か》って名を命《つけ》んと苦心し猫は猫だから猫と号《な》づく、さて攷《かんが》うると猫より強いから虎、それよりも強い故竜、竜は雲なくんば行き得ぬ故雲、雨ふれば雲散ずる故雨、それを吹き飛ばす風、風を防ぎ遮る障子、それを噛み破る鼠と段々改称してさて鼠より猫が強いので猫を猫と号づけて最初の名に戻ったと。虎や獅に王威ある由を述べたついでに言い置くは虎の威を仮る狐てふ[#「てふ」に「という」の注記]諺だ、これは江乙《こういつ》が楚王に〈狐虎の威を仮る〉と言った故事で『戦国策』に出ている。『今昔物語集』巻五第二十一語に天竺《てんじく》の山に狐と虎住み、その狐虎の威を仮りて諸獣を恐《おど》す、虎行きて狐を責め狐恐れて逃ぐるほどに井に落ちたとありて、弁財天と堅※地神[#「※」は「あなかんむり+牛」、21−1]《けんろうじしん》の縁起譚だがその出処が解らぬ。芳賀博士の攷証本にも聢《しか》と出ておらぬ、多分インドで出来たのでなく江乙の語に拠って支那で作られたものかと思う。
 マルコポロ紀行に元|世祖《せいそ》将官に位勲の牌を賜い佩用せしむるに、金また銀を鍍《めっき》した牌に獅の頭を鐫《え》り付けたとあるが、ユールの註に拠るとマルコの書諸所に虎を獅と訛称しあるそうだ。古くより虎賁《こほん》などいう武官職名もあり、虎符を用いた事もあるから件の牌には虎頭を鐫り付けたのだろう。今日といえどもアフリカで虎と呼ぶは豹でアメリカで虎と呼ぶは旧世界に全くなきジャギュアル、また獅と呼ぶのは同じく東半球に住まぬピューマなるなど猫属の諸獣の性質|酷《はなは》だ相似たる点から名称の混雑は尠《すく》なくない。
 『戦国策』に人あり係蹄《わな》を置きて虎を得たるに、虎怒りて※[#「※」は「あしへん+番」、21−9]《あしのうら》を決《き》って去る、虎の情その※[#「※」は「あしへん+番」、21−9]を愛せざるにあらざれど、環寸《わずか》の※[#「※」は「あしへん+番」、21−10]を以て七尺の躯を害せざる者は権なりとあって虎の決断を褒《ほ》め居る。ロメーンスの説に狐が足を係蹄に捉われて危殆と見ると即刻自ら咬み切って逃ぐるは事実だとある。『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』第十一版獅の条を見ると近来獅の性実は卑怯なる由言う人多しとあって、要は人と同じく獅もことごとく勇猛ならず、中には至って臆病な奴もありなんと結論し居る。かかる噂は今に始まったのでなくレオ・アフリカヌスが十六世紀に既に言って居る。モロッコのマグラ市近き野に獅が多いが極めて怯懦《きょうだ》で、小児が叱ると狼狽|遁《に》げ去《さ》る、その辺の大都フェスの諺に口ばかり剛情な怯者を詈《ののし》って汝はアグラの獅ほど勇なり犢《こうし》にさえ尾を啖《く》わるべしというとある。虎もこの例で至って臆病なのもあるらしく、前年スヴェン・ヘジン、チベット辺で水を渡る虎の尾を小児に曳かれて何事もなからざりしを見たと何かで読んだ。さらば虎に勝った勇士の内には真の勇士でなくて機会|好《よ》く怯弱な虎に出逢って迎えざるの誉れを得たのもあるだろう。『瑣語』に周王太子宜臼を虎に啗《くら》わさんとした時太子虎を叱ると耳を低《た》れて服したといい、『衝波伝』に孔子山に遊び子路をして水を取らしむ水所にて虎に逢い戦うてその尾を攬《と》りこれを得懐に内《い》れ水を取って還《かえ》る、さて孔子に問いけるは上士虎を殺す如何《いかん》、子|曰《いわ》く虎頭を持つ、また中士の作法を問うと耳を捉えると答えた、下士虎を殺さば如何《どう》すると問うと、虎の尾を捉えると答えたので子路自分の下士たるを慙《は》じ尾を出して棄てたとある。子路は至って勇ありしと聞くが周王太子などいずれ柔弱な人なるべきに叱られて服した虎はよほど弱腰の生れだったと見える。『朝野僉載《ちょうやせんさい》』には大酔して崖辺で睡《ねむ》った人の上へ虎が来て嗅ぐと虎鬚がその人の鼻孔に入りハックションと遣《や》った声に驚きその虎が崖から落ちて人に得られたとある。
 ローマ帝国の盛時虎を多く畜《か》って闘わしめまた車を牽《ひ》かせた例もある。今もジャワで虎や犀を闘わす由(ラッツェル『人類史』二)、『管子』に桀王の時女楽三万人虎を市に放ってその驚駭を見て娯《たのし》んだとあるから、支那にも古くから帝王が畜ったのだろう。
 虎が仙人や僧に仕えた話は支那にすこぶる多い。例せば西晋の末|天竺《てんじく》より支那に来た博識|耆域《きいき》は渉船を断られて虎に騎《の》って川を渡り、北斉の僧稠は錫杖を以て両虎の交闘を解く、後梁の法聡は坐するところの縄牀《じょうしょう》の両各々一虎あり、晋安王来りしも進む能わず、聡手を以て頭を按《おさ》え地に著《つ》けその両目を閉ざしめ、王を召し展礼せしむとはなかなか豪《えら》い坊主だ。王境内虎災大きを救えと乞うと入定する事|須臾《しゅゆ》にして十七大虎来る、すなわち戒を授け百姓を犯すなからしめた、また弟子に命じ布の故衣《ふるぎ》で諸虎の頸を繋ぐ、七日経て王また来り斎《とき》を設くると諸虎も僧徒と共に至る、食を与え布を解きやるとその後害を成さず、唐の豊干禅師が虎に騎って松門に入ったは名高い談《はなし》で後趙の竺仏調は山で大雪に会うと虎が窟を譲ってその内に臥さしめ自分は下山した、唐の僖宗の子普聞禅師は山に入って菜なきを憂うると虎が行者に化けてその種子をくれて耕植し得た、南嶽の慧思は山に水なきを患《うれ》うると二虎あり師を引きて嶺に登り地を※[#「※」は「あしへん+包」、23−9]《か》いて哮《ほえ》ると虎※泉[#「※」は「あしへん+包」、23−10]とて素敵な浄水が湧出した、また朝廷から詰問使が来た時二虎石橋を守り吼えてこれを郤《しりぞ》けた、『独異志』に劉牧南山野中に果蔬《かそ》を植えると人多く樹を伐《き》り囿《その》を践《ふ》む、にわかに二虎来り近づき居り牧を見て尾を揺《ゆる》がす、我を護るつもりかと問うと首を俛《ふ》せてさようと言う態《てい》だった、牧死んで後虎が去ったと『類函』に引いて居る。虎が孝子を恵んだ話は『二十四孝』の内にもあるが、ほかにも宋の朱泰貧乏で百里|薪《たきぎ》を鬻《ひさ》ぎ母を養う、ある時虎来り泰を負うて去らんとす、泰声を※[#「※」は「がんだれ+萬」、23−15]《はげま》して我は惜しむに足らず母を託する方なしと歎くと虎が放ち去った、里人輩感心して醵金を遣り虎残と名づけた。また楊豊虎に噛まる、十四になる娘が手に刀刃なきに直ちに虎頭を捉えて父の難を救うたとある。予もそんな孝行をして見たいが子孝ならんと欲すれども父母|俟《ま》たずで、海外留学中に双親《ふたおや》とも冥途に往かれたから今さら何ともならぬ。

    (四) 史 話

 史書や伝記に載った虎に関する話はすこぶる夥しいから今ただ手当り次第に略述する事とせり。まず虎が恩を人に報じた例[#「例」は底本では「礼」]を挙げると、晋の干宝の『捜神記』に廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙《おおあな》に至り地に置き蹲《うずくま》りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視《み》る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送ったと見ゆ。天主教僧ニコラス・デル・テコの『南米諸州誌』に、一五三五年、メンドツァ今日アルゼンチナ国の首都ブエノサイレスの地に初めて殖民地を建て、程無く土蕃と難を構え大敗し、次いで糧食乏しくなりて人|相食《あいは》むに※[#「※」は「しんにょう+台」、24−10]《およ》んだ、その時一婦人坐して餓死するよりはいっそインディアンか野獣に殺さるるが優《まし》と決心して、広野に彷徨《さまよ》う中ある窟に亜米利加獅《ピューマ》の牝が子を産むに苦しむを見、大胆にも進んで産婆の役をして遣った、米獅《ピューマ》これを徳とし産後外出して獣を搏《う》ち将《も》ち来て肉を子供と彼女に分ちくれたので餓死を免がれた、そのうちインディアンが彼女を擒《いけど》り、種々難儀な目に遭わせたが、遂にスペイン人に賠《つぐな》われて城に帰った、それは吉《よ》かったが全体この女性質慓悍で上長の人の命に遵《したが》わぬから遂に野獣に啖《く》わす刑に処せられた、ところが天幸にも一番に彼女を啖わんと近づき寄ったのが、以前出産を助けもろうた牝米獅《めピューマ》で、見るより気が付き、これは飛んだところで御目に懸ります、忰《せがれ》どもも一人前になって毎度御噂を致しいる、女ながらも西大陸の獣中王たる妾《わたし》が御恩報《ごおんがえ》しに腕を見せましょうと、口に言わねど畜生にも相応の人情ありて、爪牙を尖らせ他の諸獣を捍《ふせ》いで一向彼女に近づかしめず、見物一同これほど奇特な米獅《ピューマ》に免じて彼女を赦さずば、人間が畜生に及ばぬ証明をするようなもの、人として獣に羞《は》じざらめやと感動して彼女を許し、久しく無事で活命させたとある。『淵鑑類函』に晋の郭文かつて虎あり、たちまち口を張って文に向うたんで視ると口中に骨|哽《たて》り、手を以て去《と》ってやると明日鹿一疋持ち来って献じた。また都区宝という人父の喪で籠りいた時里人虎を追う、虎その廬に匿《かく》れたのを宝が簔で蔵《かく》しやって免がれしめた、それから時々野獣を負ってくれに来たとある。古ギリシアの人が獅のために刺《とげ》を抜きやり、のち罪獲て有司《やくにん》その人を獅に啖わすとちょうど以前刺を抜いてやった獅であって一向啖おうとせず、依って罪を赦された話は誰も知るところだ。これらはちょっと聞くと嘘ばかりのようだが予年久しく経験するところに故ロメーンス氏の説などを攷《かんが》え合わすと猫や梟《ふくろう》は獲物を人に見せて誇る性がある、お手の物たる鼠ばかりでなく猫は蝙蝠《こうもり》、梟は蛇や蟾蜍《ひきがえる》など持ち来り予の前へさらけ出し誠に迷惑な事度々だった。故セントジョージ・ミヴワートは学者|一汎《いっぱん》に猴類を哺乳動物中最高度に発達したる者と断定し居るは、人と猴類と体格すこぶる近く、その人が自分免許で万物の長と己惚《うぬぼ》るる縁に付けて猴が獣中の最高位を占めたに過ぎぬが、人も猴も体格の完備した点からいうと遠く猫属すなわち
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