言い分くる語すこぶる多く、芝や空の色を一つの語で混じ言うを何とも思わぬが牛の褐色を種別して言い能わぬ者を大痴《おおばか》とす(ラッツェル『人類史《ヒストリー・オブ・マンカインド》』巻一)。田辺の漁夫は大きさに準《よ》って鰤《ぶり》を「つはだ、いなだ、はまち、めじろ、ぶり」と即座に言い別くる。しかるに綿羊と山羊の見分けが出来ぬ。開明を以て誇る英米人が兄弟をブラザー姉妹をシスターと言うて、兄と弟、姉と妹をそれぞれ手軽く言い顕《あらわ》す語がないのでアフリカ行の宣教師が聖書を講ずる際、某人《それがし》は某人《それがし》のブラザーだと説くと、黒人がそれは兄か弟かと問いヤし返答に毎々困るというが(ラッツェル『人類史』二)、予もイタリア書に甥も孫もニポテとあるを見るごとにどっちか分らず大いに面喫《めんくら》う事である。
 『本草』に虎が狗《いぬ》を食えば酔う狗は虎の酒だ、また虎は羊の角を焼いた煙を忌みその臭《かざ》を悪《にく》んで逃げ去る、また人や諸獣に勝つが蝟《はりねずみ》に制せらるとある。佐藤成裕の『中陵漫録』二に虎狗を好み狗|赤小豆《あずき》を好み猫|天蓼《またたび》を好み狐焼鼠を好み猩《しょうじょう》桃を好み鼠|蕎麦《そば》を好み雉子《きじ》胡麻を好み、虎狗を食して淫を起し狗|赤小豆《あずき》を食して百疾を癒《いや》し猫天蓼を※[#「※」は「くちへん+敢、13−15]《くろ》うてしきりに接《まじわ》る、狐焼鼠を見て命を失う猩桃を得て空に擲《なげう》つ、鼠蕎麦に就いて去る事を知らず、雉子胡麻を食して毎朝来ると見ゆ。皆まで嘘でなかろう、虎が蝟に制せらるるは昨今聞かぬが豪猪《やまあらし》を搏《う》つとてその刺《はり》に犯され致命傷を受くる事は近年も聞くところだ。『物類相感志』に虎が人を食うごとに耳上に欠痕もしくは割裂を生ずる、その数を験して何人食ったと判るとある。また『淵鑑類函』に〈虎小児を食わず、児痴にして虎の懼るべきを知らず、故に食わず、また酔人を食わず、必ず坐して守り以てその醒《さ》むるを俟《ま》つ、その醒むるを俟つにあらず、その懼るるを俟つなり〉とある、自分を懼れぬ者を食わぬのだ。さていわく〈およそ男子を食う必ず勢より起る、婦人は必ず乳より起る、ただ婦人の陰を食わず〉とは大椿件だ。十六世紀にレオ・アフリカヌスが著した『亜非利加紀行《デスクリプチヨネ・デル・アフリカ》』に婦女山中で獅に出会うた時その陰を露《あらわ》せばたちまち眼を低うして去るとある。これは邪視《イヴル・アイ》を避くるに女陰を以てすると同一の迷信から出たらしい。邪視の詳しき事は、『東京人類学会雑誌』二七八号二九二頁以下に長く述べ置いた、ただし支那説は虎が女陰を食わぬばかりで、見たら逃げるとないからアフリカの獅のごとくこれを怖るるでなく単にその臭味を忌む事という意味らしい。

    (三) 虎と人や他の獣との関係

 『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』第十一版巻二十六に「牝虎は二ないし五、六児を一度に産むが三疋が普通だ、その子を愛する事甚だしく最も注意してこれを守る、生れて二年目に早《はや》自分で餌を求める、それまで母と一緒に居る、その間母虎の性殊に兇暴で子が乳離れする頃より鹿|犢《こうし》豕等を搏《う》って見せその法を教ゆ、この際牝虎の猛勢惨酷その極に達する、多分子を激して手練を積ましむるためだろう、さて十分殺獲術を究めた上ならでは子と離れぬ、若い虎は老虎より迥《はる》かに物多く殺し一度に三、四牛を殺す事あり、老虎は一度に一つより多く殺す事|稀《まれ》で、それも三、四また七日に一度だ」とある。虎が一たび人を啖《く》うとその癖が付く。インドのニルゲリ山間などは虎はあれど人を殺す事至って稀だが家に飼った水牛を害する事しきりだ(リウァース著『トダ人族篇』四三二頁)。このほど死んだワレス氏が六十年前シンガポールに寓した時常に近所を彷徨《うろつ》く虎若干ありて、新開の阿仙薬園《アンビエルえん》に働く支那人を平均日に一人ずつ殺したと『巫来群島篇《ゼ・マレー・アーキペラゴ》』第二章に言われた。十七世紀に支那に宣教したナヴワレッテがキリスト教を奉ずる支那人に聞いたは、その頃百また二百虎群を成して広東より海関に至る、旅人百五十人以上隊を組むにあらざれば旅し得ず、これがため僅々数年間に五万人死せりとは大層な話ながらかかる話の行わるるを見て如何《いか》に虎害が支那に繁かりしかを察せらるる。また支那の書に馬虎を載す、全く馬同様だが鱗を被《かぶ》り虎の爪あり、性殺を好む、春日川より出でて人畜を捉うと。欧人湖南にこの獣ありと聞き往って精《くわ》しく捜せしも見出さず全然法螺話だろうという(アストレイ『新編紀行航記全集《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オブ・ウオエージス・エンド・トラヴェルス》』巻四、頁三一三)。これは『水経註《すいけいちゅう》』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童《かっぱ》だろうという人多いが確かならぬ。エイモニエーの『安南記』にはオラングライー族の村に虎入りて人なり犬なり豕なり一頭でも捉わるると直ぐ村を他処へ移すと見ゆ。一七六九年インドの北西部飢饉し牛多く死し虎常時の食を得ず、ブハワバール市を侵しおよそ四百人を殲《ころ》し、住民逃げ散じて市ために粕N間空虚となったとクルックの『西北印度諸州篇《ゼ・ノース・ウエスターン・プロヴインセス・オブ・インジア》』に見え、次に開化の増進に随い虎が追々減少する事体を述べ居る。虎を狩る法は種々あり、虎自身が触れ動かして捕わるる弾弓や、落ちたら出る事ならぬ穽《おとしあな》や木葉に黐《もち》塗りて虎に粘《ねばりつ》き狂うてついに眼が見えぬに至らしむる設計《しかけ》等あるが、欧人インドで虎を狩るには銃を揃え象に乗って撃つのだ。康熙帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る。遼元の諸朝は主として弓を用いたらしい。『類函』四二九巻に陳氏義興山中に家《す》む、夜虎門に当って大いに吼《ほ》ゆるを聞き、開き視《み》れば一少艾衣類凋損《ひとりのむすめきものそこね》たれど妍姿傷《みめそこ》ねず問うてこれ商人の女《むすめ》母に随い塚に上り寒食を作《な》すところを虎に搏たれ逃げ来た者と知り、見れば見るほど麗《うつく》しいから陳の妻が能《よ》くわが子婦たらんかと問うと諾した。依ってその季子に配す。月を踰《こ》えてその父母尋ね来り喜び甚だしく遂に婚姻を為し目《なづ》けて虎媒といったとある。
 虎を殺した者を褒《ほ》むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王《しょうじょうおう》の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人|※※[前の「※」は「にくづき+句、後の「※」は「にくづき+忍」、16−15]《くじん》廖仲薬《りょうちゅうやく》[#底本ではルビの「りょうちゅうやく」が「こうちゅうやく」と誤記]秦精《しんせい》等|弩《いしゆみ》を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経《へ》すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功|焉《これ》より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻んで盟を成したばかりでは一向詰まらぬ、きっと何物かくれたのじゃろう。一六八三年ヴェネチア版、ヴィンツェンツォ・マリア師の『東方遊記《イル・ヴィアッジオ・オリエンター》』に西インドコチン王は躬《みずか》ら重臣輩の見る所で白質黒条の虎を獲るにあらざれば即位するを得ず、この辺の虎に三品あり武功の次第に因ってそれぞれの虎の皮を楯に用い得る、また虎を殺した者は直ちにその鬚と舌を抜き王に献ず、王受け取ってこれを焼きその勇者に武士号を与え金また銀に金を被《かぶ》せたる環中空《かんなかくう》にして小礫《こいし》また種子を入れたるを賜う。勇士これを腕に貫けば身動くごとに鳴る事鈴のごとし。かくて虎の尸《しかばね》もしくはその一部を提《たずさ》え諸方を巡遊すれば衆集まり来りてこれを見贈遺多く数日にして富足るとある。これに似た一事を挙げんにアフリカの仏領コンゴー国では蟹(ンカラ)を海の印号とし虎に縁近き豹(ンゴ)を陸の印号としまた王家の印号とす。因って豹を尊ぶ事無類で王族ならではその皮を衣《き》るを得ず、これを猟《と》り殺すに種々の作法あり、例せばデンネットの『フィオート民俗篇』(一八九七年版)十八章に「豹を殺した者あると聞いて吾輩|忙《いそ》いで町へ還《かえ》った、何故というと豹が殺された時は各町民が思うままに他町民と勝手次第に相掠奪す、殺した人が豹皮を王に献ずる日はその人思い付きのまま町のどの部分でも通り、その間家内にさえなくば何でもかでも押領し得るんだ、さてかの者自身縛られて王前に詣《いた》り叮嚀に豹首を布に包み携う、王問う「吾子よ何故汝はこの人(豹)を殺したか」、豹殺し対《こた》う「彼は甚だ危険な人で王の民の羊や鶏を夥しく殺しました」、王いわく「吾子よ汝は善くした、それじゃ彼の髯《ほおひげ》を数え見よ、汝も知る通りすべて三九二十七毛あるはずだ、一つでも足らなんだら汝は孤《わし》に布二匹を賠《はら》わにゃならぬ」、かの者答う「父よ勘定が合うて二十七毛確かにござります」、王「そんなら注意《きをつけて》髯を皆抜け、次に歯と爪と皮もことごとく取って孤の用に立てよ」、豹殺し命のまにまに抜き取り剥ぎ取りおわる、ここにおいて王言う「吾子よ汝は大勇の猟師だから爾後狩に出る時食事を調《ととの》うる者を欲しいだろ、因ってこの若い嬢子《むすめ》を汝の婢なり妾なりにして取って置け」と聞いて豹殺し腰抜かすばかり悦《よろこ》びながら「父様見やんせ、余りに衣類が弊《やぶ》れているので、とてもこんな結構な品を戴かれません」、王「吾子よ最もな事を吐《ぬか》す、さらばこの衣類を遣わすからそこで着よ」、豹殺し「父様有難くて冥加《みょうが》に余って誠にどうもどうも、しかしこんな尤物《べっぴん》に木を斫《き》ってやる人がござらぬ」、王「委細は先刻から承知の介だ、この少童を伴れ去って木を斫らすがよい、またこの人を遣《や》るから鉄砲を持たせ」、豹殺し「父よ今こそ掌を掌《う》って御礼を白《もう》します」、そこで王この盛事のために大饗宴を張る」とある。小説ながら『水滸伝』の武行者や黒旋風が虎を殺して村民に大持てなところは宋元時代の風俗を実写したに相違ない。
 盗人にも三分の理ありとか、虎はかく人畜を残害するもののそれは「柿食いに来るは烏の道理|哉《かな》」で、食肉獣の悲しさ他の動物を生食せずば自分の命が立ち往かぬからやむを得ぬ事だ、既に故ハクスレーも人が獣を何の必要なしに残殺するは不道徳を免れぬが虎や熊が牛馬を害したって不道徳でなくて無道徳だと言われたと憶《おぼ》える。閑話休題《それはさておき》、虎はまず猛獣中のもっとも大きな物で毛皮美麗貌形雄偉行動また何となく痒序《おちつい》たところから東洋諸邦殊に支那で獣中の王として尊ばれた。『説文』に虎を獣君という、山獣の君たればなり、また山君というと、わが邦で狼を大神と呼び今も熊野でこれを獣の王としまた山の神と称うるごとし。『揚子』に聖人虎別、君子豹別、弁人狸別、狸変ずればすなわち豹、豹変ずればすなわち虎、これは聖人君子弁人を順次虎豹狸に比べたのだ。『管子』に〈虎豹は獣の猛者なり、深林広沢の中に居る、すなわち人その威を畏れてこれを載す、虎豹その幽を去って而して人に近づくすなわち人これを得てその威を易《あなど》る、故に曰く虎豹幽に託《よ》って威載すべきなり〉。熊楠|謂《おも》うに昔|朱※[#「※」は「月+彡」、19−8]《しゅゆう》隠居して仕えず、閻負涼《えんぶりょう》に使し※[#「※」は「月+彡」、19−9]を以て王猛に比し並称す。秦主|苻堅《ふけん》猛を侍中とせし時猛※[#「※」は「月+彡」、19−9]に譲れり、のち猛死し堅南晋に寇《こう》せんとす、苻融石越等皆|諫《いさ》めしも※[#「※」は「月+彡」、19−10]独りこれを賛し、にわかに※水[#
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