猫や虎豹獅米獅等の輩に及ばぬと論じた。この事については熊楠いまだ公けにせぬ年来の大議論があって、かつて福本日南に大英博物館《ブリチシュ・ミュジユム》で諸標品について長々しく説教し、日南感嘆して真に天下の奇才と称揚されたが、日本の官吏など自分の穢《きたな》い根性から万事万物汚く見る故折角の名説も日本では出し得ず、これを公にすると直ぐに風俗壊乱などとやられる。ここばかりに日が照らぬからいずれ海外で出す事としよう、とにかく眼で視《み》数で測り得る体格上でさえ人間の己惚れから観察に錯誤ある事ミヴワートの説のごとし、まして他の諸動物の心性の上に至っては近時まで学者も何たる仔細の観察をまるでせなんだ、これは耶蘇《ヤソ》教で人は上帝特別の思召しもて他の諸動物と絶えて別に創作された物といい伝えたからで、それなら人と諸動物と業報次第|輪廻《りんね》転生すと説く仏教を奉じた東洋の学者は諸動物の心性を深く究めたかというと、なるほど仏教の経論に多少そんな論もあるが、後世の学者が一向気に留めなんだから何の増補|研覈《けんかく》するところなかった、人と諸動物の心性の比較論はなかなか一朝にして言い尽すべきでないが、諸動物中にも特種の心性の発達に甚だしく逕庭がある、その例としてラカッサニュは犬が恩を記《おぼ》ゆる事かくまで発達しおるに人の見る前で交会して少しも羞じざると反対に、猫が恩を記ゆる事甚だ少なきに交会のヤを人に見する事なきを挙げた。ただし猫のうちにも不行儀なもあって、予は英国で一回わが邦で二回市街で人の多く見る所で猫が交わるを見た。また貝原益軒は猫の特質として死ぬ時の貌いかにも醜《みぐるし》いから必ず死ぬ態を人に見せぬと言って居る。猫属の輩は羞恥という念に富んでいるもので、虎や豹が獣を搏ち損う時は大いに恥じた風で周章《あわて》て首を低《た》れて這い廻り逃げ去るは実際を見た者のしばしば述べたところだ。『本草』にも〈それ物を搏ち三躍して中《あた》らざればすなわちこれを捨つ〉と出づ。獣の中には色々変な心性の奴もあって大食獣《グラットン》とて鼬《いたち》と熊の類の間にあるものは、両半球の北極地に住み幽囚中でも肉十三ポンドすなわち一貫五百七十二|匁《もんめ》余ずつ毎日食う、野にあるうちはどれだけ大食するか知れぬ至極の難物だが、このものの奇質は貯蓄のため食物を盗みまた自分の害になる係蹄《わな》を窃《ぬす》み隠すのみか、猟師の舎に入って毛氈鉄砲|薬鑵《やかん》小刀その他一切の什具を盗み去って諸処に匿すのだ、これらは食うためでないからただただ好奇心から出る事と知らる(ウット『博物画譜《イラストレーテット・ナチュラル・ヒストリー》』巻一、『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』十一版、巻十二)。言わばこの獣は人間に窃盗狂《クリプトマニア》に罹ったように心性が窃みの方に発達を極め居るのだ。因って想うに虎や獅や米獅は時として友愛の情が甚だ盛んな性質で、自分を助けくれた人を同類と見做し、猫や梟同前手柄自慢で種々の物を捉えて見せに来る、特に礼物進上という訳でないが、人の立場から見るとちょうど助けやった返礼に物を持ち来てくれる事となるのだろう。
わが国で寅年に生れた男女に於菟《おと》という名を付ける例がしばしばある、その由来は『左伝』に楚の若敖《じゃくごう》、※[#「※」は「云+おおざと」、27−16]《うん》より妻を娶り闘伯比を生む、若敖卒してのち母と共に※[#「※」は「云+おおざと」、27−16]に畜《やしな》わるる間※[#「※」は「云+おおざと」、27−16]子の女に淫し令尹《れいいん》子文を生んだ、※[#「※」は「云+おおざと」、28−1]の夫人これを夢中に弃《す》てしむると、虎が自分の乳で子文を育った、※[#「※」は「云+おおざと」、28−2]子|田《かり》して見付け惧れ帰ると夫人実を以て告げ、ついに収めて育った、楚人乳を穀《こう》虎を於菟という、因って子文の幼名を闘穀於菟《とうこうおと》すなわち闘氏の子で虎の乳で育った者といったと見ゆ。ロメーンスの『動物知慧論《アニマル・インテリジェンス》』に猫が他の猫を養い甚だしきは鼠をすら乳する事を載せ、貝原益軒も猫は邪気多きものだが他の猫の孤《みなしご》をも己れの子同様に育つるは博愛だと言った。虎も猫の近類だから時として人や他の獣類の子を乳育せぬとも限らぬであろう。参考のため狼が人の子を乳育する事について述べよう。誰も知るごとくローマの始祖ロムルス兄弟は生れてほどなく川へ流され、パラチン山の麓に打ち上げられたところへ牝狼来て乳育したと言い伝う。後世これを解くにその説|区々《まちまち》で、中にはローマで牝狼をも下等娼妓をも同名で呼んだから実は下等の売淫女に養育されたんだと言った人もある、それはそれとしておき狼が人児を養うた例はインドや欧州等に実際あるらしい、一八八〇年版ポールの『印度藪榛生活《ジャングル・ライフ・イン・インジア》』四五七頁以下に詳論しある故少々引用しよう。曰くインドで狼が人子を乳した例ウーズ州に最も多い、しかしてこの州がインド中で最も狼害の多い所でまず平均年々百人は狼に啖《く》わる。スリーマン大佐の経験譚によればその辺で年々小児が狼に食わるる数多きは狼窟の辺で啖われた小児の体に親が付け置いた黄金《きん》の飾具を聚《あつ》めて渡世とする人があるので知れる、その人々は生計上から狼を勦滅《とりつく》すを好まぬという。一八七二年の末セカンドラ孤児院報告に十歳ほどの男児が狼※[#「※」は「あなかんむり+果」、28−16]より燻《ふす》べ出された事を載せた。どれほど長く狼と共に棲んだか解らぬが、四肢で行《ある》く事上手なと生??nむところから見ると習慣の久しきほとんど天性と成したと見える、孤児院に養われて後も若き狗様《いぬよう》に喚《うな》るなど獣ごとき点多しと載せた。また一八七二年ミネプリ辺で猟師が狼※[#「※」は「あなかんむり+果」、29−3]から燻べ出し創《きず》だらけのまま件の孤児院に伴れ来た児は動作全く野獣で水を飲む様狗に異《かわ》らず、別けて骨と生肉を好み食う、常に他の孤児と一所に居らず暗き隅に竄《かく》る、衣を着せると細かく裂いて糸と為《な》しおわる、数月院にあって熱病に罹り食事を絶って死した。今一人狼※[#「※」は「あなかんむり+果」、29−6]より得られこの院に六年ばかりある児は年十三、四なるべし、種々の声を発し得るが談話は出来ず喜怒は能《よ》く他人に解らせ得、時として少しく仕事をするが食う方が大好きだ、追々生肉を好まぬようになったが今なお骨を拾うて歯を磨《と》ぐ、これら狼※[#「※」は「あなかんむり+果」、29−9]から出た児が四肢で巧く歩くは驚くべきもので、物を食う前に必ずこれを嗅ぎ試むとある。著者ポール氏自らかの孤児院に往きてその一人を延見《ひきみ》しに普通の白痴児の容体で額低く歯やや反《そ》り出《で》動作軽噪時々歯を鳴らし下顎|攣《ひき》つる、室に入り来てまず四周《ぐるり》と人々を見廻し地板《ゆかいた》に坐り両掌を地板に較《の》せ、また諸方に伸ばして紙や麪包《パン》の小片《かけ》を拾い嗅ぐ事猴のごとし、この児|痩形《やせがた》にて十五歳ばかりこの院に九年|棲《す》めり、初めはどこにも独り行き得なんだがこの頃(一八七四年)は多少行き得、仕事をさせるに他が番せねばたちまち休《やめ》る癖あり、最も著しき一事はその前肢甚だ短き事でこれは長く四ツ這いのみし行《ある》きしに因るだろうという、最初この児捕われた時一牝狼の尸《しかばね》とその子二疋とともに裁判庁へ将《も》ち来《きた》る、全く四肢で行《ある》き万事獣と異《かわ》らず、煮た物を一切食わず、生肉は何程《いかほど》も啖う、その両脚を直にするため数月間土人用の寝牀に縛り付けて後ようやく直立するに及べり、今一人狼※[#「※」は「あなかんむり+果」、30−2]より燻べ出された児は年はるかに少《わか》かったが夜分|動《やや》もすれば藪に逃げ入りて骨を捜し這い行《ある》く、犬の子のごとく悲吟するほか音声を発せず、これらの二児相憐愛し長者少者に鍾《コップ》より水飲む事を教えた、この少者わずかに四ケ月この院にあったその間ヒンズー人しばしば来てこれを礼拝し、かくすればその一族狼害を免がると言った。一八五一年スリーマン大佐曰く数年前ウーズ王の臣騎馬で河岸を通り三疋の獣が水飲みに来るを見ると、二疋は疑いなく幼い狼だが一疋は狼でなかった、直ちに突前して捉え見ると驚くべし、その一疋は小さき裸の男児で、四肢で行《ある》き膝と肘《ひじしり》が贅《こぶ》に固まりいた、烈しくもがく奴をついに擒《いけど》ってルクノーに伴れ行き畜《こ》うたが、全く言語せず才智狗同前で手真似や身ぶりで人意を悟る事|敏《はや》かった、大佐また曰く今一児狼群中より捉え来られたのは久しき間強き狼臭が脱けず、捉えられて後三疋の狼来て子細に吟味した後その児少しも惧れずともに戯れた、数夜後には六疋尋ねて来た、もとかの児と同夥《どうか》と見えると、またマクス・ミュラーの説にチャンズールの収税吏が河辺で大きな牝狼が穴から出ると三疋の狼子と一人の小児が随いて行くを見て捕えんとすると狼子の斉《ひと》しく四肢で走り母狼に随い皆穴に入った、土民集まり土を掘ってかの児を獲たが、穴さえ見れば這入《はい》らんとす、大人を見て憚る色あったが小児を見れば躍《と》び付いて咬もうとした、煮た肉を嫌い生肉と骨を好み犬のごとく手で押えいた、言語を教えるも呻吟《うなる》ばかりだった、この児のち英人ニコレツ大尉の監督で養われたが生肉を嗜む事甚だしく一度に羊児半分を食った、衣を着ず綿入れた蒲団を寒夜の禦《ふせ》ぎに遣ると破ってその一部分を嚥《の》んでしまったが一八五〇年九月死去した、生存中笑った事なく誰を好くとも見えず何を聞くも解らぬごとし、捕われた時九歳ほどらしく三年して死んだ、毎《いつ》も四這《よつばい》だが希《まれ》に直立し言語せず餓える時は口に指した。ミュラーこのほか狼に養われた児の譚を多く挙げて結論に、すべて狼に養われた児は言語《ものい》わぬらしい、古エジプト王やフレリック二世ジェームス四世それからインドの一|莫臥爾《モゴル》帝いずれも嬰児を独り閉じ籠めて養いどんな語《ことば》を発するかを試したというが、今日そんな酷い事は出来ず、人の言語は天賦で自ずから出来《いできた》るか、他より伝習して始めて成るかを判ずるにこれら狼に養われた児輩に拠るのほかないと言った、さて人の児がどうして狼に乳育さるるに※[#「※」は「しんにょう+台」、31−10]《およ》んだかてふ問題をポール解いて次の通り述べた。曰くたとえば一※[#「※」は「あなかんむり+果」、31−11]中の一狼が生きながら人児を捉え帰り今一狼は一羊を捉え帰るに、その羊肉のみで当分腹を充たすに足る時は人児は無益に殺されず、その間牝狼の乳を吸いそのまま狼の一族と認められたのだろう、また一層もっともらしき解説は狼その子を失い乳房|腫《は》れ脹《ふく》るるより人児を窃《ぬす》み来って吸わせ自然にこれを愛育したのだろう、また奇態な事は従来男児に限って狼に養われたらしいと。
勇士が虎に勝った史話は多く『淵鑑類函』や『佩文韻府』に列《なら》べある。例せば『列士伝』に秦王|朱亥《しゅがい》を虎|圏《おり》の中に著《お》いた時亥目を瞋《いか》らし虎を視るに眥《まなじり》裂け血出|濺《そそ》ぐ、虎ついにあえて動かず。『周書』に楊忠周太祖竜門の狩に随うた時独り一虎に当り、左にその腰を挟み右にその舌を抜く、小説には『水滸伝』の武松《ぶしょう》李逵《りき》など単身虎を殺した者が少なからぬ、ただし上の(三)にも述べた通り虎の内にも自ずから強弱種々だから、弱い虎に邂逅《めぐりあわ》せた人は迎えざるに勇士の名を得たのもあろう、『五雑俎』巻九に虎地に拠りて一たび吼ゆれば屋瓦皆震う、予黄山の雪峰にあって常に虎を聞く、黄山やや近し、時に坐客数人まさに満を引く、※然[#「※」は「九+虎」、32−6]《こうぜん》
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