Nマオに向い往くも構わぬという(大正二年十二月『郷土研究』六二七頁)。このクマオも熊尾で上述の虎同様熊が短き尾を以て行くべき処を卜うてふ伝説でもあるのか、また西洋で北斗を大熊星というからその廻るのを熊尾と見立てての事か、大方の教えを乞い置く。
 『本草綱目』に虎皮を焼いて服《の》めば卒中風を療す、また瘧疾《おこり》を治し邪魅を避く、と出《い》づ。『起居雑記』に虎豹の皮上に睡れば人の神を驚かしむとある由。予往年大阪の老いた薬商に聞いたは、虎皮上で竜虎采戦の秘戯をすると二人とも精神|茫空《ぼうくう》す熊胆を服めば本復すと。どうも啌《うそ》らしいから自分|試《ため》して実否を験せんと毎度望むが、虎皮が手もとにないから事遂げぬ。読者中誰か貸してくれぬかしら。虎膏は狗噛瘡を治し、下部に納《いれ》れば痔病で血下るを治し、内服せば反胃《かく》を治し、煎消して小児の頭瘡|白禿《しらくも》に塗ると『本草』に見ゆ。宜《よろ》しく行《や》って見なさい。だが虎膏は皮より一層むつかしい尋ね物だ。昔仏|王舎城《おうしゃじょう》に在《おわ》せし時、六群比丘、獅虎豹豺|羆《ひ》の脂《あぶら》を脚に塗り象馬牛羊驢の厩に至る。皆その脂臭を嗅いで覊絆《きはん》を托※[#「※」は「てへん+曳」、78−8]《たくえい》驚走す、比丘輩我大威徳神力ある故と法螺《ほら》吹き諸|居士《こじ》これを罵る。猟師の習い悪獣の脂を脚に塗り畜生をして臭いを聞《か》いで驚き走らしむるのだ。仏これを聞いてかかる事した比丘を突吉羅《ときら》罪とした(東晋訳『十誦律毘尼序』巻下)。
 アイモニエー曰く、猫|往昔《むかし》虎に黠智《かつち》と躍越法を教えたが特《ひと》り糞を埋むる秘訣のみは伝えず、これを怨《うら》んで虎今に猫を嫉むとカンボジアの俗信ずと。また同国で言うは虎|故《ゆえ》なく村に入るは伝染病流行の兆《きざし》と。熊野で聞いたは狼もっとも痘瘡の臭を好み、この病|流行《はや》る時村に忍び入って患者に近づかんとすと。『山海経』に崑崙の西に玉山あり西王母《せいおうぼ》居る、〈西王その状《かたち》人のごとし、豹尾虎歯にして善く嘯く、蓬髪《ほうはつ》勝を戴《いただ》く、これ天の※[#「※」は「がんだれ+萬」、78−16](※[#「※」は「がんだれ+萬」、78−16]は※[#「※」は「うかんむり+火」、78−16]《わざわい》なり)および五残(残殺の気なり)を司る〉。支那にも昔流行病と虎豹と関係ありとしたのだ。また虎が人を病ましむる事も『淵鑑類函』に出づ。清源の陳褒別業に隠居し夜窓に臨んで坐す、窓外は広野だ、たちまち人馬の声あり、屹《きっ》と見ると一婦人虎に騎《の》り窓下より径《みち》を過ぎて屋西室の外に之《ゆ》く。壁隔て室内に一婢ありて臥す。右の婦人細き竹杖で壁隙より刺すと婢腹病むというて戸を開き厠《かわや》に如《ゆ》く。褒まさに駭《おどろ》き、呆《あき》れて言を発せぬうち婢立ち出で虎に搏《う》たる。褒出で救うてわずかに免がれた。郷人曰く村中つねにこの怪あり、虎鬼と名づくと。虎に騎った女鬼が人を杖で突いて腹痛がらせ外出して虎に搏たれしむるので、上に言った※鬼[#「※」は「にんべん+長」、79−7]《ちょうき》の類だ。インドの虎狩人の直話をワルハウス筆して曰く、コイムバトール地方を永い間侵して人多く殺した一虎を平らげんとて懸賞したが、誰も討ちおおせなんだ。世評にこの虎に食われた梵志の霊がその虎に騎り差図して撃たれざらしむと言った。件《くだん》の虎狩人何とか討ち留めて高名せんと村|外《はず》れの高樹に上り銃を手にして見廻し居ると、夜中に一つの光が榛中《しんちゅう》を巡り行《あり》く、眼を定めて善く視《み》ると虎の頭に光ありて虎形が朦朧《もうろう》ながら見えるほどだ。樹に近く来るとその人全身|痺《しび》れるほど怖ろしくなり銃を放ち能わず一生にかつてこんな恐《こわ》い目に遭った事なしと(一八九四年十二月『フォークロール』二九六頁)。
 ジャクモンが『一八二八|至《より》三二年|印度紀行《ウオヤージ・ダン・ランド》』一にジャグルナット行の巡礼葉竹の両端に二つ行李《こうり》附けて担《にな》い行李ごとに赤布片を付ける、林中の虎を威《おど》すのだとあるが、そんな事で利《き》く事か知らん。『西京雑記』にいう、東海の黄公少時|幻《げん》を能くし蛇や虎を制するに赤金刀を佩《お》ぶ、衰老の後飲酒度を過ぐ、白虎が東海に見《あらわ》れたので例の赤刀を持ち厭《まじない》に行きしも術行われず虎に食われた、年老《としより》の冷水でなくて冷酒に中《あた》ったのだ。『呂氏春秋』には不老長生の術を学び成した者が、虎に食われぬ法を心得おらなくて虎に丸呑みにされたとある、いわゆる人参《にんじん》呑んで縊死だ。インドのゴンド人は毎村術士あり、虎を厭《まじない》して害なからしめ、ゴイ族は虎殺すと直ぐその鬚を取り虎に撃たれぬ符とす(一八九五年六月『フォークロール』二〇九頁)。トダ人水牛を失う時は、術士|私《ひそ》かに石三つ拾い夜分牛舎の前に往き、祖神に虎の歯牙を縛りまた熊|豪猪《やまあらし》等をも制せん事を祈り、かの三石を布片に裹《つつ》み舎の屋裏に匿《かく》すと、水牛必ず翌日自ら還る。たとい林中に留まるも石屋裏にある間は虎これを害せず、水牛帰って後石を取り捨つ(リヴァースの『トダ人族篇』二六七頁)。ブランダ人虎を制する呪《まじない》を二つスキートおよびプラグデンの『巫来半島異教民種篇《ペーガン・レーセス・オヴ・ゼ・マレー・ペニンシュラ》』に載せた、その一つは「身を重くする呪を誦《とな》えたから虎|這《は》う森の樹株に固着《ひっつい》て人の頭を嫌いになれ、後脚に土重く附き前足に石重く附いて歩けぬようになれ、かく身を重くする呪を誦えたから我は七重の城に護《まも》らるる同然だ」という意である。
 同書に拠るとマレー半島には飼犬また蛙が虎の元祖だったという未開民がある。ブランダ人言う、最初虎に条紋なかったが川岸に生えるケヌダイ樹の汁肉多き果《み》が落ちて虎に中《あた》り潰《つぶ》れ虎を汚して条紋を成したと。『本草』に海中の虎鯊《こさ》能く虎に変ずとある。一八四六年カンニングハム大尉の『印度ラダック通過記』に今日アルモラー城ある地で往古クリアン・チャンド王が狩すると兎一疋林中に逃げ入って虎と化けた。これは無双の吉瑞で他邦人がこの国を兎ほど弱しと侮って伐《う》つと実は虎ほど強いと判る兆《きざし》とあってこの地に都を定めたという。ランドの『安南民俗迷信記』にコンチャニエンとて人に似て美しく年|歴《と》ると虎に化ける猴《さる》ありと。
 『本草綱目』に越地《えつち》深山に治鳥《じちょう》あり、大きさ鳩のごとく青色で樹を穿《うが》って※[#「※」は「あなかんむり+果」、81−5]《す》を作る、大きさ五、六升の器のごとく口径数寸|餝《かざ》るに土堊《どあ》を以てす、赤白|相間《あいまじ》わり状|射候《まと》のごとし。木を伐る者この樹を見ればすなわちこれを避く、これを犯せば能く虎を役して人を害し人の廬舎《ろしゃ》を焼く、白日これを見れば鳥の形なり、夜その鳴くを聞くに鳥の声なり、あるいは人の形と作《な》る、長《たけ》三尺|澗《たに》中に入りて蟹《かに》を取りて人間の火について炙《あぶ》り食う、山人これを越祀の祖というと載す。『和漢三才図会』にこれをわが邦の天狗の類としまたわが邦いわゆる山男と見立てた説もあるが、本体が鳥で色々に変化し殊に虎を使うて人を害するなど天狗や山男と手際《てぎわ》が違う。とにかく南越地方固有の迷信物だ。鳥と虎と関係ありとする迷信はこのほかにも例がある。ヴォワン・スチーヴンス説にマレー半島のペラック、セマン人懐妊すると父が予《あらかじ》め生まるべき児の名を産屋《うぶや》近く生え居る樹の名から採って定めおく。児が産まれるや否や産婆高声でその名を呼びその児を他の女に授け児に名を附けた樹の下に後産を埋める。さて父がその樹の根本から初めて胸の高さの処まで刻み目を付ける、これと同時に賦魂の神カリ自身|倚《よ》りて坐せる木に刻み目を付けて新たに一人地上に生出せるを標《しる》すとぞ。その後その木を伐らずその児長じても自分と同名の木を一切伐らず損《そこな》わぬ。またその実をも食わぬ。もしその児が女で後年子を孕《はら》むと自分と同名の樹で自宅辺に生え居るやつに詣《まい》り香|好《よ》き花や葉を供え飾ると、今度生まるべき児の魂が鳥に托《よ》って来り母に殺され食わるるまで待ち居る。この児の魂が托り居る鳥は不断その母と同名の樹に限り住み母の体が行くに随いこの木かの木と同種の樹を撰び飛び行く、またその母が初めて生む児の魂を宿す鳥は必ず母が祖母に孕まれいた時母の魂を宿した鳥の子孫だ。カリ神がこの鳥に児の魂を賦与する。万一母が懐妊中その生むべき子の魂が托り居る鳥を捕《と》り食わなんだら、流産か産後少時しか生きおらぬ。またもし子の魂が托った鳥を殺す時ススハリマウ(虎乳菌《とらのちちたけ》)の在る上へ落したら、その子生まれて不具となる。ススハリマウは地下に在る硬菌塊でワず茯苓雷丸《ぶくりょうらいがん》様の物らしい、その内にまだ生まれぬ虎の魂が住み、牝虎子を生んだ跡でこの菌を食うと子に魂が入《はい》る、ただし虎は必ず牝牡一双を生むもの故、この菌一つにきっと二子の魂一対を宿すそうだ。さて妊婦がその胎児の魂が宿り居る鳥を殺してかの菌の上へ落ちると、虎二疋の魂が菌を脱け出で鳥に入り、その鳥を妊婦が食うと胎児の体に入って虎と人の魂の争闘が始まり、児を不具にしもしくは流産せしむ。ただしこの争闘で児の体は不具もしくは流産となるが争闘の果ては人魂が毎《いつ》も虎魂に克《か》つ。またこの菌に托る虎魂はかつて死んだ虎の魂でなくてカリ神が新たに作り種|蒔《ま》くごとく撒賦《まきくば》ったものだ。また虎魂が産婦現に分身するところを襲い悩ます事あり、方士《ブット》を招き禁厭《まじない》してこれを救うそうだ(スキートおよびプラグデンの書、上出三―五頁)。同書にジャクン族はその族王の魂は身後虎鹿豕鰐の体に住むと堅く信ずという。またベシシ族間に行わるる虎が唄うた滑稽謡を載せ居る。虎が虎固有の謡を唄うと信ずるのだ、セマン人信ずらく虎と蛇は毎《いつ》も仲|宜《よ》かった。かつて虎が人を侵すをプレ神|※[#「※」は「きへん+解」、83−4]《ミスルトー》寄生の枝もて追い払うた、爾後《じご》虎はプレ神の敵となり※[#「※」は「きへん+解」、83−5]寄生を滅ぼさんとすると蛇これに加勢した。犀鳥《ライノセラス・バード》は神方で蛇の頸を銜《くわ》え持ち行くところへプレ神が来る。鳥何か言い掛けると蛇を喙《くちばし》から堕《おと》す。その頭をプレ神踏まえて鳥に虎を追わしめた。蛇の頭|膨《ふく》れたるはプレ神に踏まれたからで鳥に啄《ついば》まれた頸へ斑が出来た。それから犀鳥が蛇を見れば必ず殺し虎を見れば必ず叫んで追い去らんとす。故に虎を射る場合に限り犀鳥の羽を矧《は》いだ矢を用いてこれに厭《まじない》勝つのだ。またベシシ族の術士はチンドウェー・リマウ(虎チンドウェー)という小草を磨潰《すりつぶ》し胸に塗ると虎に勝ち得るという。この草の葉に虎皮同様の条紋ありその条紋を擬して術士の身に描く、セマン人言う藪中に多き木蛭《きびる》が人の血を吮《すす》るを引き離し小舎《こや》外で焼くと虎血の焦げる臭いを知って必ず急ぎ来る。また吹箭《ふきや》もて猟に行く人の跡を随行また呼び戻すために追い駆ける者を虎|疾《にく》んできっとこれを搏ちに掛かると。
 智者大師説『金光明経文句』の釈捨身|品《ぼん》の虎子頭上七点あるを見て生まれてすでに七日なるを知る事『山海経』に出《い》づとあるが、予はかかる事『山海経』にあるを記《おぼ》えず。また件《くだん》の説はインド説か支那説かまた智者自身の手製か否かをも知らぬ。
 西北インドの俗、表が裏より狭き家をガウムクハ(牛顔)、表が裏より広き家をシェルダハン(虎顔)と呼び、牛顔を吉虎顔を凶とす(『パ
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