塔Wャブ・ノーツ・エンド・キーリス』第十六記)。仏教の第二祖|阿難《あなん》の本名|舎頭諫《ザルズーラ・カルナ》、これは虎の耳の義だ。虎を名とした本邦人で一番名高いのは、男で加藤虎之助女で大磯の虎女だろ。依って本篇の終りに余り人の気付かぬ事を二つ述べる、まず大磯のお虎さんは『曾我物語』四に、母は大磯の長者父は一年《ひととせ》東に流されて伏見大納言《ふしみだいなごん》実基《さねもと》卿、男女の習い旅宿の徒然《つれづれ》一夜の忘れ形見なりと見えるが、『類聚名物考《るいじゅめいぶつこう》』四十に『異本曾我物語』に「この虎と申す遊君は母は元来平塚の者なり、その父を尋ぬれば去《さんぬ》る平治の乱に誅《ちゅう》せられし悪右衛門督信頼卿の舎兄|民部少輔《みんぶのしょう》基成とて奥州平泉へ流され給ふ人の乳母子《めのとご》に宮内判官《くないほうがん》家長《いえなが》といひし人の娘なり、その故はこの人平治の逆乱によりて都の内に住み兼ねて東国へ落ち下り相模国《さがみのくに》の住人|海老名《えびな》の源八|権守《ごんのかみ》季貞と都にて芳心したりし事ありける間この宿所を頼みてゐたりける。年来《としごろ》になりければ平塚の宿に夜叉王《やしゃおう》といふ傾城《けいせい》のもとへ通ひて女子一人設けたり寅の年の寅の月の寅の日に生まれければその名を三虎御前とぞ呼ばれける。かくていつき育てしほどに十五歳の時家長|空《むな》しくなりぬ。父死して後母に附いてゐたりしが宿中を遊びつるを容《かたち》の好《よ》きにつれて大磯宿の長者菊鶴といふ傾城乞ひ受けて我娘として育てける。かくて虎十七歳十郎二十歳の冬よりも三年が間|偕老《かいろう》の契り浅からず云々」とありと引いた。文中に見る基成は泰衡《やすひら》らの外祖父で義経戦死の節自殺した。『東鑑《あずまかがみ》』建久四年六月十八日故曾我十郎が妾(大磯の虎除髪せずといえども黒衣|袈裟《けさ》を着す)箱根山の別当行実坊において仏事を修し(中略)すなわち今日出家を遂げ信濃国善光寺へ赴く時に年十九とある。建久四|癸丑《みずのとうし》年に十九なら安元元|乙未《きのとひつじ》年すなわち未歳生まれで寅歳でない、『東鑑』は偽りなしだから『異本曾我物語』は啌《うそ》で寅歳生まれで虎と名づけたでなく寅時にナも生まれたのだろ。次に加藤清正の子忠広幼名虎藤丸(古橋又玄の『清正記』三)藤原氏で父の稚名を虎之助といったからの名だ。この人は至って愚人だったよう『常山紀談《じょうざんきだん》』など普通書き立て居るが、随分理窟の立っていた人だったのは塩谷宕陰《しおのやとういん》の『照代記』その改易の条を見ても判《わか》る、曰く〈ここにおいて忠広荘内に百石を給い(その子)光正を飛騨に幽し※廩[#「※」は「しょくへん+氣」、85−9]《きりん》百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて鹵簿《ろぼ》中の槍を取り、諸《これ》を使者に示して曰く、これ父清正常に把《と》るところ、賤岳《しずがたけ》に始まり征韓に至る大小百余戦、向うところ敵なし、庚子の役また幕府のために力を竭《つく》し以て鎮西《ちんぜい》の賊を誅す、伝えて忠広に至り、以て大阪に従役す、而今かくのごとし、また用ゆるところなし、すなわち刃を堂礎に※[#「※」は「事+りっとう」、85−13]《さ》し以てこれを折る。荘内に在るに及んで左右その人を非《そし》るを見、詩を賦して以て自ら悲しむ、三十一年一夢のごとく、醒め来る荘内破簾の中の句あり、聞く者これを怜《あわ》れむ〉。英人リチャード・コックス『江戸日本日記』一六二二年(元和《げんな》八年)二月二十一日の条、コックス江戸にあり芝居に之《ゆ》く途上オランダ館に入り肥後か肥前の王に邂逅す、武勇な若い人で年々五十万石を領す、今蘭人に事《つか》え居る僕一人、先にかの王に事えた縁によりオランダ館を訪ねたのだ。彼予に語る予この日オランダ館へ来なんだら予をも訪ぬるつもりだったと。彼予に対するにその礼を尽くし彼の領国へ往けばすべての英国人を優待せんと申し出でられたと筆し居る。一七三二年版チャーチルの『航記紀行集函《ア・コレクション・オヴ・ヴォエイジス・エンド・トラヴェルス》』巻一に収めたる元和寛永頃カンジズス輯録『日本強帝国摘記《サム・キュリアス・リマークス・オヴ・ジャパン》』にカットフィンゴノカミ(加藤肥後守、即ち忠広)五十五万四千石、ナビッシマシナノ、フィスセン、ロギオイス(鍋島《なべしま》信濃、肥前|名護屋《なごや》)三十六万石とあり、コックスが肥後か肥前の王五十万石を領すといえるは忠広なる事疑いなくこの人勇武なるのみならず外人に接する礼に閑《なら》い世辞目なき才物たりしと見ゆ。(完) (大正三年七月、『太陽』二〇ノ九)
(付) 狼が人の子を育つること
『淵鑑類函』四二九に〈『後周書』曰く、突厥《とっけつ》の先、匈奴の別種なり、隣国に破らるるところと為《な》る、その族に一小児あり、草沢中に棄つ、牝狼あり、肉を以てこれを飼う、長ずるに及んで狼と交合し、ついに孕《はら》めり〉、さすがは畜生、人の児を育て上げてその子を孕み、十子を産んだのが突厥狼種民の祖という。また『地理志』、陝西《せんせい》慶陽府に狼乳溝あり、周の先祖|后稷《こうしょく》ここに棄てられたを、狼が乳育したという。
一昨年出た柳田氏の『山の人生』二〇章に、予の書翰《しょかん》に由って上述インドの事例を略叙し、「この種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の山の神であっても、子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである」といわれた。ところが、インドに狼を氏に名のりその子孫と自信する者多く、狼を族霊(トーテム)とする部種また少なからぬ。上述通りウーズ州にもっとも狼害多いが、ここのジャンワール、ラージュプット族は狼と厚縁あり、その児女狼に食われず、時としてその※[#「※」は「あなかんむり+果」、87−8]《す》に養わると信ぜらるというから、突厥狼種と等しく、狼育人児の一件に基づいて狼を霊物としたのが少なからじ(一八九六年版、クルックの『北印度俗宗および俚俗』二巻一五二―三頁。一九二四年版、エントホヴェンの『孟買《ボンベイ》俚俗』六章)。既に上に引いたポールの書にも、ヒンズ人が狼に養われた児を礼拝して、一族狼害を免がると信じた旨明記しある。また日本の狼が人の子を助け育てた実例はないとは尤《もっと》もな言い分だが、そんな話は確かに伝わりおる。『紀南郷導記』に、西牟婁郡「滝尻五体王子、剣山権現ともいふ由なり、往昔|秀衡《ひでひら》の室、社後の岩窟にて臨産の節、祈願して母子安全たり、また王子に祈誓し、この子をすなはち巌窟に捨て置き、三山に詣《けい》して帰路にこれをみるに、狐狼等守護していさゝかも恙《つつが》なき故に、七重|伽藍《がらん》を建立《こんりゅう》」したと見ゆ。拙妻の妹が剣山の神官の子婦だから、この話は毎度耳にしおり、乳岩という岩ありて乳を滴《したた》り出し、狐狼がそれで以て秀衡の幼児(後に泉三郎|忠衡《ただひら》)を育てたそうだ。それから前年柳田氏に借りて写し置いた『甲子夜話《かっしやわ》』一七に、旗下《はたもと》の一色熊蔵話しとて、「某といへる旗下人の領地にて、狼出て口あきて人に近づく、獣骨を立てたるを見、抜きやれば、明日一小児門外に棄てあり、何者と知れず、健《すこや》かに見えしとて、憐れんで己《おの》が子のごとく養ひ、成長後嗣子とせり、本《もと》より子なかりしを知りて、何方《いずかた》よりか奪ひ来りしとみゆ、狼つれ来りし証は、肩尖《かたさき》に歯痕あり、子孫に連綿と勤めおるが、肩には歯痕ごとき物あり」と載す。事実か否は判らないが、柳田氏の書に引「た他の譚《はなし》なみになら十分通ると察する。これで日本にて狼が人の子を育てたり、食わずに人に養わせたりの話が皆無でないと知るべし。
また大分新らしいのは猴《さる》が人の子を養うというやつだ。というと、板垣退助伯の娘猿子の名などより仕組んだ咄など邪推されんが、予の手製でなく、昨年八月九日ロンドン発行『モーニング・ポスト』紙に出た。二十五年前喜望峯東南州の荒野で邏卒《らそつ》二名が猴群に雑《まじ》った一男児をみつけ、伴《つ》れ帰ってルカスと名づけ、農業を教えると、智慧は同侶に及ばねど力量と勤勉と信用は優《まさ》り、よく主人に仕え、殊にその子を守るを好む。珍な事はこの者に時という観念全くなしとの事だ。(完)
(付) 虎が人に方術を教えた事
『日本紀』二四に、皇極《こうぎょく》天皇四年四月、〈高麗《こま》の学僧ら言《もう》さく、「同学|鞍作得志《くらつくりのとくし》、虎を以《も》て友として、その術《ばけ》を学び取れり。あるいは枯山《からやま》をして変えて青山にす。あるいは黄なる地《つち》をして変えて白き水にす。種々《くさぐさ》の奇《あや》しき術、殫《つく》して究むべからず(『扶桑略記《ふそうりゃっき》』四には多以究習とす)。また、虎、その針を授けて曰く、慎矣慎矣《ゆめゆめ》、人をして知らしむることなかれ。ここを以て治めば、病《やまい》愈えずということなし、という。果して言うところのごとくに、治めて差《い》えずということなし。得志、恒《つね》にその針を以て柱の中《うち》に隠し置けり。後に、虎、その柱を折《わ》りて、針を取りて走去《に》げぬ。高麗国《こまのくに》、得志が帰らんと欲《おも》う意《こころ》を知りて、毒《あしきもの》を与えて殺す」と〉。似た譚が支那にもある。いわく、〈会稽余姚《かいけいよよう》の人|銭祐《せんゆう》、夜屋後に出で、虎の取るところと為《な》る、十八日すなわち自ら還り、説くに虎初め取る時、一官府に至り、一人几に憑《よ》るを見る、形貌壮偉、侍従四十人、いいて曰く、われ汝をして数術の法を知らしめんと欲すと、留まること十五日、昼夜諸の要術を語る、祐法を受け畢《おわ》り、人をして送り出ださしめ、家に還るを得、大いに卜占を知り、幽にして験せざるなく年を経てすなわち死し、異苑を出づ〉と。支那説に〈虎衝破を知る、能く地を画し奇偶を観る、以て食を卜し、今人これに効《なら》う、これを虎卜という〉。またいわく、〈虎行くに、爪を以て地を※[#「※」は「つちへん+斥」、読みは「さけ」、90−1]り食を卜す〉。安南人の説に、人が虎に啖わるるは、前世から定まった因業で遁《のが》れ得ない。その人前生に虎肉を食ったか、前身犬や豚だった者を、閻魔王がその悪《にく》む家へ生まれさせたのだ。故に虎が人を襲うに、今度は誰を食うと、ちゃんと目算が立ちおり、その者家にありや否やを考えて、疑わしくば木枝を空中に擲《な》げ、その向う処をみて占うといい、カンボジア人は、虎|栖処《すみか》より出る時、何気なく尾が廻る、その尖《さき》をみて向うべき処を定むと信ず。マレー人説には、虎食を卜うに、まず地に伏し、両手で若干の葉をとり熟視すれば、一葉の輪廓が、自分食わんと志す数人中の一人の形にンえるが首はない、すなわちその人と決定し食うと。またマレー人やスマトラ人が信ずるは、人里遠い山林中に虎の町あり、人骨をタルキ、人皮を壁とし、人髪で屋根をふいた家に虎どもが棲《す》み、生活万端人間に異ならずと。銭祐が往った虎の官府に似た事だ。けだし、支那やマレー諸地に※虎[#「※」は「むじなへん+區」、90−10]※人[#「※」は「むじなへん+區」、90−10]の迷信盛んに、虎装した兇人が、秘密に部落を構えすみ、巧みに変化して種々の悪行をなし、時には村里へ出て内職に売卜したと見える。元来虎の体色と斑条が、熟日下の地面と樹蔭によく似るから、事に臨んで身を匿《かく》すに妙で、虎巧みにその身を覆蔵すと仏経に記され、〈虎骨甚だ異なり、咫尺《しせき》浅草といえども、能く身伏し露《あらわ》れず、その※然[#「※」は「九+虎」、90−14]《こうぜん》たる声を作《な》すに及んで、すなわち巍然《ぎぜ
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