ナ父の稚名を虎之助といったからの名だ。この人は至って愚人だったよう『常山紀談《じょうざんきだん》』など普通書き立て居るが、随分理窟の立っていた人だったのは塩谷宕陰《しおのやとういん》の『照代記』その改易の条を見ても判《わか》る、曰く〈ここにおいて忠広荘内に百石を給い(その子)光正を飛騨に幽し※廩[#「※」は「しょくへん+氣」、85−9]《きりん》百人口を給う、使者本門寺に往き教を伝う、忠広命を聴き侍臣に命じて鹵簿《ろぼ》中の槍を取り、諸《これ》を使者に示して曰く、これ父清正常に把《と》るところ、賤岳《しずがたけ》に始まり征韓に至る大小百余戦、向うところ敵なし、庚子の役また幕府のために力を竭《つく》し以て鎮西《ちんぜい》の賊を誅す、伝えて忠広に至り、以て大阪に従役す、而今かくのごとし、また用ゆるところなし、すなわち刃を堂礎に※[#「※」は「事+りっとう」、85−13]《さ》し以てこれを折る。荘内に在るに及んで左右その人を非《そし》るを見、詩を賦して以て自ら悲しむ、三十一年一夢のごとく、醒め来る荘内破簾の中の句あり、聞く者これを怜《あわ》れむ〉。英人リチャード・コックス『江戸日本日記』一六
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