カて恩を忘れ熊を落して大虫に啖わせたがそれから発狂した、熊は仏の前身、恩知らずの樵夫は提婆達多《だいばだった》の前身だとあるが大虫は誰の前身とも説いていない。『中阿含経』十六に大猪《おおぶた》五百猪に王たり嶮難道を行くうち虎に逢う、虎と闘わば必定《ひつじょう》殺されん闘わねば子分輩に笑われんいかにすべきと念《おも》うて、虎我と闘わんと欲せば闘えしからざれば我に道を借せと言うと虎どもは闘うべし道は借さぬと答う、猪余儀なく虎|少《しばら》く住《とど》まり待て我祖父の鎧《よろい》を著《き》来って戦うべしとて便所に至り宛転《ころがり》て糞を目まで塗り往きて虎に向うと、虎大いに閉口し我まさに雑小虫を食わざるは牙を惜しめばなり、いわんやこの臭き猪に近づくべけんやと念いて猪に道を借すべし闘うを欲せずと言う、猪往き過ぎ顧みて虎を嘲り、〈汝四足あり我もまた四足あり、汝来り共に闘え、何の意か怖れて走る〉と呼ばわると、虎答えて曰く〈汝毛|竪《た》ちて森々たり、諸畜中に下極まる、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪うべからず〉、猪自ら誇りて曰う〈摩竭鴦二国、我汝と共に闘うと聞く、汝来りて我と共に戦え、何を以て怖れて走る〉、虎答う〈身毛を挙げて皆汚る、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えん〉、鷹は死しても穂を摘まずと本邦で言うごとくまた支那で虎豹を君子、豺狼を小人に比するごとくインドにも虎牙を惜しんで詰まらぬ物と争わぬと言う諺があったらしい。『四分律』九に善牙獅子、善搏虎と伴《とも》たり、一の野干《ジャッカル》ありて二獣の後を逐い残肉を食い生活せしが、何とか二獣を離間せんとて師子に告ぐらく、虎|毎《いつ》も我生処種姓形色力勢皆師子に勝る我日々好美食を得師子わが後を逐うて残肉を食うと言うと、それから虎にもかように告げて師子を讒《ざん》す、後二獣一処に集まり眼を瞋《いか》らして相視る、師子まず手で虎を打ち汝は何事も我に勝れりと説けりやと問うと、虎さては野干が我らを闘わすつもりと了《さと》り、我かつてかかる言を説かず、我らを離間せる者を除くべしとて野干を打ち殺したと出づ、シェフネルの『西蔵説話《チベタンテイルス》』(一九〇六年版)には昔林中に牝獅と牝虎各子一疋伴れたるが棲んだ、ある日獅の不在にその子|蕩《まよ》うて虎に近づいたので虎一度はこれを殺そうと惟《おも》うたが、自分の子の好侶と思い翻してこれを乳育《そだつ》る、牝獅帰って子が失せたるに驚き、探り行きて牝虎が乳呑ませ居るところへ来ると、大いに愕き逃げ出すを牝獅が呼び止め何と爾今《じこん》一処に棲んで※[#「※」は「にんべん+爾」、54−11]《なんじ》が不在には我が※[#「※」は「にんべん+爾」、54−11]の児を守り我不在にはわが児を※[#「※」は「にんべん+爾」、54−11]に託する事としようでないかというと、虎も応諾して同棲し、獅児を善牙、虎の児を善搏と号《な》づけ生長する内、母獣|両《ふたつ》ながら病んで臨終に両児を戒め、汝らは同じ乳を吸うて大きくなったから同胞に等し、世間は讒人で満ち居るから何分讒言に中《あ》てられぬよう注意せよと言って死んだ、善牙獅|毎《いつ》も※[#「※」は「鹿+章を上下に組み合わせる」、54−14]《ガゼル》を殺すと肉を啖い血を啜《すす》って直ちに巣へ帰ったが、善搏虎は※[#「※」は「鹿+章を上下に組み合わせる」、54−15]を殺すに疲るる事夥しく血肉を啖いおわって巣へ帰るに長時間を費やした、因って残肉を蔵《かく》し置き一日それを※[#「※」は「くちへん+敢」、54−16]《くら》って早く帰ると獅が今日汝何故早く帰るぞと問う、虎答うらくわれ貯え置いた肉を啖って事が済んだからだ、獅重ねて問う汝は残肉を貯うるか我は殺した物をその場で食い後へ貯うる事なしと、虎それは汝が強き故で我は弱いから残肉を貯えざるを得ぬと答えた、獅それは不便だ以後我と伴れて出懸くべしとて一緒に打ち立つ事とした、従来善牙獅の蹤《あと》を追い残肉を食い行く性悪の一老野干あり、今虎が獅と連れ行く事となって自分の得分ェ乏しくなったのを憾《うら》み離間策を案出し、耳を垂れて獅に近づきかの虎|奴《め》は毎度獅の残肉を食わさるるが嫌だから必ず獅を殺そうと言いおると告げると、獅野干にその両母の遺誡を語り已後《いご》かかる事を言うなと叱った、野干獅我が忠告を容れぬから碌な事が起るまいと呟く、どんな事が起るかと問うと虎が巣から出て伸《のび》し欠《あくび》し四方を見廻し三たび吼えて汝の前に来り殺さんと欲する事疑いなしと言うた、次に野干虎を訪れ前同様獅を讒すると虎もまた両母の遺誡を引いて受け付けぬ、野干我が忠告を容れねば必ず兇事に遭わん獅|栖《す》より出て伸し欠し四方を見廻し三たび吼えて後汝の前に来り殺意を
前へ 次へ
全33ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング