A50−9]《やまわろ》ごときものとなるがそれと同時に考察の力が鋭くなりしたがって従来他から聴いたり書で読んだりせなんだ問題を自ずから思い浮かぶ事が多い、紅藻属種の最も多くは海に限って産しヒルデプランチア属の他の諸種は皆海に生ずる、このリヴラリスの一種のみ深山高地の急流底に生ずるから推すとこの一属は太古高山に創生して追々海へ繁殖したものでなく、昔海だった処が漸々隆起して陸となり山となったに伴《つ》れて当時磯に生えおったこの藻も鹹水住居を淡水に振り替えて渓流で存命《いきなが》らえある一種となったか、ただしは初め海にのみ生じたものが漸々川へ滝を伝うて高山に登ったかでなければならぬ、然るところ昔海だった証左のまるでない高山にもこの藻がありかつ風で運ばれ行くべき性質のものでないからどうしても海から山へ登ったと判ずるのほかない、十一年前予紀州|西牟婁《にしむろ》郡|朝来《あつそ》沼で丁斑魚にミクソネマ・テヌエてふ緑藻が託生せるを見出したが三、四年経てアイルランドで同じ藻が金魚に著《つ》きいるを見出した人があった(一九〇八年十一月の『ネーチュール』七九巻九九頁、予の「魚に著くる藻」を見よ)。生来この藻は流水や噴泉で不断|盪《あら》わるる処に生えるがその胞子が偶然止水中に入って困《くる》しんだ余り一計を案じ魚に託生してその魚が游《およ》ぐとちょうど生活に必要なほどな振動を受け動水中にあると同然に活きいたのだ。それと等しくヒルデプランチアも元海に生えたが繁殖の余勢で淡鹹両水の雑《まざ》った江に侵入しそれから高地の急流や滝が岩を打つ勢いちょうど海波が磯を打つに均《ひと》しき処に登って生存し居るらしい、濠州辺で鮫が内地の淡水湖に進入したりインドや南米に川にばかり棲む鯨類があるような事だ、さてこのヒルデプランチアの胞子は多くの緑藻や褐色藻の胞子と異なり自ら游いで適当の地に達し得るものでないので、海から高地まで登るに胞子は急流で洗い落とされほとんど無用だ。その故か予は岩壁生のこの藻に胞子あるを見た事がなく、普通に藻の細胞体から芽を出し拡げて殖え行くのだ、大和北山の田戸附近ですこぶる高い滝の下方からこの藻が二丈ばかり登り懸けたのが極めて美観だったのを見た、また那智で一丈四方ほどの一枚|巌《いわ》全くこの藻を被《かぶ》りそれから対岸の石造水道を溯って花崗石作りの手水鉢《ちょうずばち》の下から半面ほど登りあるを見た、これらはしかるべく観察を続けたらこの藻がどれほどの速力で高地へ登るという事も知れ、ひいてこの辺の山が出来た年数なども分り、学術上非常に有益な事と思うたが、その地に永く留まり得ないで研究を中止した、また件の手水鉢中の水が血を注いだように黝《くろ》赤いので鏡検すると、従来予が聞いた事なき紅色の双鞭藻《ジノフラゲラタ》で多分新種であろう。双鞭藻は黄褐また緑を常色とする、ベーンの説に葉の色の緑なるは何故と問うと葉緑素《クロロフィル》を含んで居るからと言うて説明が済んだと思う人が多いが、葉緑素の字義が葉を緑に彩る物だから葉緑素を含んで葉が緑色に見えると言うは葉が緑だから緑に見えるというに当り適切な説明でない、葉中に日光を受けて炭酸から炭素を取る力ある物を含むその物の色が緑ゆえ葉が緑に見えると言うと初めて説明になるとあった。いわゆる開明した人々が何の訳も心得ずに奇異の現象を見ては電気の作用だ、不思議な病症を見ては神経の作用だと言い捨つるは実際説明でなく解らぬと自白するに同じ、諸国の俗伝にちょっと聞くと誠に詰まらぬ事多くあるを迷信だと一言して顧みぬ人が多いが、何の分別もなく他を迷信と蔑む自身も一種の迷信者たるを免れぬ。したがって古来の伝説や俗信には間違いながらもそれぞれ根拠あり、注意して調査すると感興あり利益ある種々の学術材料を見出し得るてふ事を摩訶薩※[#「※」は「つちへん+垂」、52−13]王子虎に血を施した話の序《ついで》に長々しく述べた訳じゃ。
 唐義浄訳『根本説一切有部毘奈耶破僧事《こんぽんせついっさいうぶびなやはそうじ》』巻十五に昔|波羅※斯[#「※」は「やまいだれ+尼」、52−14]《はらなし》城の貧人山林に樵して一|大虫《とら》に逢い大樹に上ると樹上に熊がいたので怕《おそ》れて躊躇《ためら》う。熊愍れみ来ってその人を引き上げ抱いて坐る、大虫熊に向いその人は恩知らずだ、後必ず汝を害せん擲《な》げ落して我に食わせよ食い得ぬ内は去るまじと言う、熊我いかでか我を頼む者を殺すべきとて聴き入れず、熊かの人に向い我汝を抱きて疲れたり暫く睡《やす》む間番せよとて睡《ねむ》る、大虫|樵人《きこり》に向い汝いかにするも樹上に永く住《とどま》り得じその熊を撞《つ》き落せ我|※[#「※」は「くちへん+敢」、53−3]《く》うて去らんと言う、樵夫《きこり》もっともと同
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