に婦女山中で獅に出会うた時その陰を露《あらわ》せばたちまち眼を低うして去るとある。これは邪視《イヴル・アイ》を避くるに女陰を以てすると同一の迷信から出たらしい。邪視の詳しき事は、『東京人類学会雑誌』二七八号二九二頁以下に長く述べ置いた、ただし支那説は虎が女陰を食わぬばかりで、見たら逃げるとないからアフリカの獅のごとくこれを怖るるでなく単にその臭味を忌む事という意味らしい。

    (三) 虎と人や他の獣との関係

 『大英類典《エンサイクロペジア・ブリタニカ》』第十一版巻二十六に「牝虎は二ないし五、六児を一度に産むが三疋が普通だ、その子を愛する事甚だしく最も注意してこれを守る、生れて二年目に早《はや》自分で餌を求める、それまで母と一緒に居る、その間母虎の性殊に兇暴で子が乳離れする頃より鹿|犢《こうし》豕等を搏《う》って見せその法を教ゆ、この際牝虎の猛勢惨酷その極に達する、多分子を激して手練を積ましむるためだろう、さて十分殺獲術を究めた上ならでは子と離れぬ、若い虎は老虎より迥《はる》かに物多く殺し一度に三、四牛を殺す事あり、老虎は一度に一つより多く殺す事|稀《まれ》で、それも三、四また七日に一度だ」とある。虎が一たび人を啖《く》うとその癖が付く。インドのニルゲリ山間などは虎はあれど人を殺す事至って稀だが家に飼った水牛を害する事しきりだ(リウァース著『トダ人族篇』四三二頁)。このほど死んだワレス氏が六十年前シンガポールに寓した時常に近所を彷徨《うろつ》く虎若干ありて、新開の阿仙薬園《アンビエルえん》に働く支那人を平均日に一人ずつ殺したと『巫来群島篇《ゼ・マレー・アーキペラゴ》』第二章に言われた。十七世紀に支那に宣教したナヴワレッテがキリスト教を奉ずる支那人に聞いたは、その頃百また二百虎群を成して広東より海関に至る、旅人百五十人以上隊を組むにあらざれば旅し得ず、これがため僅々数年間に五万人死せりとは大層な話ながらかかる話の行わるるを見て如何《いか》に虎害が支那に繁かりしかを察せらるる。また支那の書に馬虎を載す、全く馬同様だが鱗を被《かぶ》り虎の爪あり、性殺を好む、春日川より出でて人畜を捉うと。欧人湖南にこの獣ありと聞き往って精《くわ》しく捜せしも見出さず全然法螺話だろうという(アストレイ『新編紀行航記全集《ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オブ・ウオエージス・エンド・トラヴェルス》』巻四、頁三一三)。これは『水経註《すいけいちゅう》』に見えた水虎の話を西人が誤聞したのでないか。『本草綱目』虫部や『和漢三才図会』巻四十にも引かれ、わが国の河童《かっぱ》だろうという人多いが確かならぬ。エイモニエーの『安南記』にはオラングライー族の村に虎入りて人なり犬なり豕なり一頭でも捉わるると直ぐ村を他処へ移すと見ゆ。一七六九年インドの北西部飢饉し牛多く死し虎常時の食を得ず、ブハワバール市を侵しおよそ四百人を殲《ころ》し、住民逃げ散じて市ために粕N間空虚となったとクルックの『西北印度諸州篇《ゼ・ノース・ウエスターン・プロヴインセス・オブ・インジア》』に見え、次に開化の増進に随い虎が追々減少する事体を述べ居る。虎を狩る法は種々あり、虎自身が触れ動かして捕わるる弾弓や、落ちたら出る事ならぬ穽《おとしあな》や木葉に黐《もち》塗りて虎に粘《ねばりつ》き狂うてついに眼が見えぬに至らしむる設計《しかけ》等あるが、欧人インドで虎を狩るには銃を揃え象に乗って撃つのだ。康熙帝自ら虎狩せしを見た西人の記には専ら槍手隊を使うたよう出で居る。遼元の諸朝は主として弓を用いたらしい。『類函』四二九巻に陳氏義興山中に家《す》む、夜虎門に当って大いに吼《ほ》ゆるを聞き、開き視《み》れば一少艾衣類凋損《ひとりのむすめきものそこね》たれど妍姿傷《みめそこ》ねず問うてこれ商人の女《むすめ》母に随い塚に上り寒食を作《な》すところを虎に搏たれ逃げ来た者と知り、見れば見るほど麗《うつく》しいから陳の妻が能《よ》くわが子婦たらんかと問うと諾した。依ってその季子に配す。月を踰《こ》えてその父母尋ね来り喜び甚だしく遂に婚姻を為し目《なづ》けて虎媒といったとある。
 虎を殺した者を褒《ほ》むるは虎棲む国の常法だ。秦の昭襄王《しょうじょうおう》の時白虎害を為せしかば能く殺す者を募る、夷人|※※[前の「※」は「にくづき+句、後の「※」は「にくづき+忍」、16−15]《くじん》廖仲薬《りょうちゅうやく》[#底本ではルビの「りょうちゅうやく」が「こうちゅうやく」と誤記]秦精《しんせい》等|弩《いしゆみ》を高楼に伏せて射殺す、王曰く虎四郡を経《へ》すべて千二百人を害せり、一朝これを降せる功|焉《これ》より大なるはなしとて石を刻んで盟を成したと『類函』に『華陽国志』を引いて居るが、かかる猛虎を殺した報酬に石を刻
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