ニには強勢な符を置いてこれを防ぎ、虎に殺された者の尸《しかばね》を一族の墓地に埋めぬとある、また正月ごとに林地の住民|豕《ぶた》一疋に村の判を捺《お》した寄進牒《きしんふだ》を添えて林中に置くと、虎が来て両《ふたつ》ながら取り去る、しからざる時はその村年中人多く啖わるとある。
 それからアジアの民族中には虎をトテムと奉ずる者がある、例せばサカイ人に虎をトテムとするがある由(一九〇六年版スキートおよびプラグデン『巫来半島異教民種篇《ペーガン・レーセス・オヴ・ゼ・マレー・ペニンシュラ》』)。トテムとは、一人また一群一族の民と特種の物との間に切っても切れぬ天縁ありとするその物をトテム、その信念をトテミズムと名づくる、その原因については諸大家の学説|区々《まちまち》で今に落着せぬ(大正二年版『ゼ・ブリタニカ・イヤー・ブック』一六〇頁)。原因は判らぬが昔トテミズムが行われた遺風を察して、その民の祖先がトテムを奉じたと知り得る。すなわち虎を祖先と信じ虎を害《そこな》うを忌み、虎肉を食うを禁じ、虎を愛養したり、虎の遺物を保存したり、虎の死を哭《こく》したり礼を以て葬ったり、虎を敬せぬ者を罰したり、虎を記号|徽章《きしょう》したり、虎が人を助くると信じたり、虎の装を著《つ》けたり、虎の名を人に附けたりするはいずれも祖先が虎をトテムと奉じた遺風だ(ゴム『史学としての民俗学』二八三頁に基づく)。アジアの諸民族中にかかる風習が多いので、したがって虎をトテムとした者がすこぶる多かったと知れる、例せば支那に孔子と同時の人陽虎、高辛氏の子に伯虎・仲熊・叔豹・季貍などある、本邦には虎を産せぬが虎を名とする人が多い、これは生まれ年の寅に因んでの事でトテムとして奉じたんでない、清正《きよまさ》幼名虎之助に頓着《とんじゃく》なく虎を討った、大磯の虎なども寅年生まれだったと伝う、高麗には虎を産し、したがってトテムとしたものか虎が人を助けた談がある、『日本紀』二四に皇極帝四年四月、〈高麗《こま》の学僧ら言《もう》さく、「同学|鞍作得志《くらつくりのとくし》、虎を以《も》て友として、その術《ばけ》を学び取れり。あるいは枯山《からやま》をして変えて青山にす。あるいは黄なる地《つち》をして変えて白き水にす。種々《くさぐさ》の奇《あや》しき術、殫《つく》して究むべからず。また、虎、その針を授けて曰く、慎矣慎矣《ゆ
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