思は山に水なきを患《うれ》うると二虎あり師を引きて嶺に登り地を※[#「※」は「あしへん+包」、23−9]《か》いて哮《ほえ》ると虎※泉[#「※」は「あしへん+包」、23−10]とて素敵な浄水が湧出した、また朝廷から詰問使が来た時二虎石橋を守り吼えてこれを郤《しりぞ》けた、『独異志』に劉牧南山野中に果蔬《かそ》を植えると人多く樹を伐《き》り囿《その》を践《ふ》む、にわかに二虎来り近づき居り牧を見て尾を揺《ゆる》がす、我を護るつもりかと問うと首を俛《ふ》せてさようと言う態《てい》だった、牧死んで後虎が去ったと『類函』に引いて居る。虎が孝子を恵んだ話は『二十四孝』の内にもあるが、ほかにも宋の朱泰貧乏で百里|薪《たきぎ》を鬻《ひさ》ぎ母を養う、ある時虎来り泰を負うて去らんとす、泰声を※[#「※」は「がんだれ+萬」、23−15]《はげま》して我は惜しむに足らず母を託する方なしと歎くと虎が放ち去った、里人輩感心して醵金を遣り虎残と名づけた。また楊豊虎に噛まる、十四になる娘が手に刀刃なきに直ちに虎頭を捉えて父の難を救うたとある。予もそんな孝行をして見たいが子孝ならんと欲すれども父母|俟《ま》たずで、海外留学中に双親《ふたおや》とも冥途に往かれたから今さら何ともならぬ。
(四) 史 話
史書や伝記に載った虎に関する話はすこぶる夥しいから今ただ手当り次第に略述する事とせり。まず虎が恩を人に報じた例[#「例」は底本では「礼」]を挙げると、晋の干宝の『捜神記』に廬陵の婦人蘇易なる者善く産を看る、夜たちまち虎に取られ、行く事六、七里、大壙《おおあな》に至り地に置き蹲《うずくま》りて守る、そこに牝虎あり難産中で易を仰ぎ視《み》る、因って助けて三子を産ましめると虎がまた易を負うて宅へ還し、返礼に獣肉を易の門内に再三送ったと見ゆ。天主教僧ニコラス・デル・テコの『南米諸州誌』に、一五三五年、メンドツァ今日アルゼンチナ国の首都ブエノサイレスの地に初めて殖民地を建て、程無く土蕃と難を構え大敗し、次いで糧食乏しくなりて人|相食《あいは》むに※[#「※」は「しんにょう+台」、24−10]《およ》んだ、その時一婦人坐して餓死するよりはいっそインディアンか野獣に殺さるるが優《まし》と決心して、広野に彷徨《さまよ》う中ある窟に亜米利加獅《ピューマ》の牝が子を産むに苦しむを見、大胆にも進んで産婆の役
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