の勇士でなくて機会|好《よ》く怯弱な虎に出逢って迎えざるの誉れを得たのもあるだろう。『瑣語』に周王太子宜臼を虎に啗《くら》わさんとした時太子虎を叱ると耳を低《た》れて服したといい、『衝波伝』に孔子山に遊び子路をして水を取らしむ水所にて虎に逢い戦うてその尾を攬《と》りこれを得懐に内《い》れ水を取って還《かえ》る、さて孔子に問いけるは上士虎を殺す如何《いかん》、子|曰《いわ》く虎頭を持つ、また中士の作法を問うと耳を捉えると答えた、下士虎を殺さば如何《どう》すると問うと、虎の尾を捉えると答えたので子路自分の下士たるを慙《は》じ尾を出して棄てたとある。子路は至って勇ありしと聞くが周王太子などいずれ柔弱な人なるべきに叱られて服した虎はよほど弱腰の生れだったと見える。『朝野僉載《ちょうやせんさい》』には大酔して崖辺で睡《ねむ》った人の上へ虎が来て嗅ぐと虎鬚がその人の鼻孔に入りハックションと遣《や》った声に驚きその虎が崖から落ちて人に得られたとある。
 ローマ帝国の盛時虎を多く畜《か》って闘わしめまた車を牽《ひ》かせた例もある。今もジャワで虎や犀を闘わす由(ラッツェル『人類史』二)、『管子』に桀王の時女楽三万人虎を市に放ってその驚駭を見て娯《たのし》んだとあるから、支那にも古くから帝王が畜ったのだろう。
 虎が仙人や僧に仕えた話は支那にすこぶる多い。例せば西晋の末|天竺《てんじく》より支那に来た博識|耆域《きいき》は渉船を断られて虎に騎《の》って川を渡り、北斉の僧稠は錫杖を以て両虎の交闘を解く、後梁の法聡は坐するところの縄牀《じょうしょう》の両各々一虎あり、晋安王来りしも進む能わず、聡手を以て頭を按《おさ》え地に著《つ》けその両目を閉ざしめ、王を召し展礼せしむとはなかなか豪《えら》い坊主だ。王境内虎災大きを救えと乞うと入定する事|須臾《しゅゆ》にして十七大虎来る、すなわち戒を授け百姓を犯すなからしめた、また弟子に命じ布の故衣《ふるぎ》で諸虎の頸を繋ぐ、七日経て王また来り斎《とき》を設くると諸虎も僧徒と共に至る、食を与え布を解きやるとその後害を成さず、唐の豊干禅師が虎に騎って松門に入ったは名高い談《はなし》で後趙の竺仏調は山で大雪に会うと虎が窟を譲ってその内に臥さしめ自分は下山した、唐の僖宗の子普聞禅師は山に入って菜なきを憂うると虎が行者に化けてその種子をくれて耕植し得た、南嶽の慧
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