A『淵鑑類函』に扶南王|范尋《はんじん》常に虎五、六頭|鰐魚《わに》六頭を畜《か》い、訟あって曲直知れぬ者を投げ与える、さて啖われた者は曲、啖われぬ者は直とする、穢貊《わいばく》の人虎を祭りて神将とするは以《ゆえ》あるなり、また天宝中|巴人《はじん》太白廟前の大松を伐る、老人ありて止むれど聴かず、老人山に登り斑子《はんし》と呼ぶと群虎出で巴人を噬《か》んだ、また嘉陵江側に婦人あり、五十歳の時より自ら十八|姨《い》と称ししばしば民家に来れど飲食せず、毎《つね》に人に好《よ》き事を作《な》せよと教ゆ、もし悪事を為《な》さば我常に猫児三、五|箇《ひき》して汝を巡検し来り報ぜしめんと語るとたちまち見えぬ、民間これは虎の化けたのと知って懼《おそ》れかつ敬したとある。晋の釈宝唱の『比丘尼《びくに》伝』二に〈竹林寺の静称尼戒業精苦、誦経《ずきょう》四十五万言云々、常に一虎あり、称に従って去来す、もし坐禅せば左右に蹲踞す、寺内諸尼もし罪失を犯し、時に懺悔せずんば、虎すなわち大いに怒り、懺悔もし竟《おわ》ればすなわち怡悦《いえつ》す〉、同書一に明感という尼、虜賊に獲られ辱を受けず牧羊に使われ、苦役十年、一比丘に遇《お》うて五戒を授かり、昼夜観音経を念ずると斑虎《ふこ》に導かれ故郷へ還り得たと載す、智者大師の『観世音義疏《かんぜおんぎそ》』に晋の恵達、凶年に甘草《かんぞう》掘るとて餓えた羌人《きょうじん》群に捕われ、かの輩肥えた人からまず食うので達と一小児と残さる、明日は食わるるに相違ない今宵《こよい》限りの命と懸命に称名《しょうみょう》誦経すると、暁近く羌人が引き出しに来るところへ虎|跳《おど》り出で、諸羌人を奔《はし》らし達と小児と免れ得た、これだから信心せにゃならぬとある。ロガンの『ジョホールのビヌア人誌』にポヤンヘ僧と医を兼ねた一級で、病を治するのみかはまた病を生ぜしむる力あり、ポヤン毎《つね》に虎の使い物一疋常住附きいる、人虎に啖わる時はその虎の主ポヤンの機嫌を損じた報いと信ぜらると見ゆ、一八三二年インドのマニプル州を巡察したグランド大尉の説に、クボ人はこの辺の虎滅多に人を襲わぬとて、虎に近くいるを一向恐れず、ただし一度人を啖わば十の九は以後やむ事なき故、村を移してその害を避くる、虎人肉の味を覚えて人を搏《う》ち始むると謂《おも》わず、その地の神怒れるに由《よ》ると信じ、虎初
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