し置いたので、『藩翰譜』に出でた山内一豊の妻などと似た行いだ。
 これら仏教譚よりもずっと『宇治拾遺』や『国史補遺』の談に近いのは袁天綱の伝にある。皆人の知る通り、天綱は唐一代の占術の達人で、よく前後五百年のことを知った。その妻が後世子孫の栄枯を占い言えと勧めたので、占うと十代めの孫はきわめて貧乏と判った。妻がそれを救う法ありやと問うたから、また占うて、某の年月日に本府の太守[#「太守」は底本では「大守」]が梁《うつばり》が落つる厄にあうべしと知った。そこで、その旨を書いて赤い箱に入れ家廟中に封じ、代々相伝えて十代めの孫に至り、某年月日にこの箱を太守に送り、必ず太守自身堂より下って親《みずか》らこれを受けしめよ、と書き付け置いた。さて十代めの孫に至り果たして大貧乏で、祖先の言を思い、その年月日を待ってかの箱を府堂の階下に送り、ぜひ太守が自身下って受けんことを求めた。太守身を起こし階を下ると同時に、堂上の朽ちた梁が落ちて、太守が今まで占めおった公座を砕いた。太守は箱を受け取り開きみると、一帖あり、汝わが十世の孫の貧を救え、われ汝の堕梁の厄を救うと書き付けたを見て、太守は活命の恩を拝謝し、
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