せねばならぬとは論理上よりは[#「論理上よりは」に丸傍点]言へぬ。
 尤も、第一の禍惡觀にしても、其一旦禍惡に服從し、禍惡をあきらめたる結果として[#「結果として」に丸傍点]、精神の均衡平和を得、或は歡喜の情を起すことあるべきは前にも述べた通りでありますけれども、歡喜の情を以て[#「歡喜の情を以て」に丸傍点]禍惡に對すると、受動的に禍惡をあきらめたる結果として歡喜の情を起す[#「結果として歡喜の情を起す」に丸傍点]とは大に趣きを異にして居ると言はねばなりません。
 スピノーザ[#「スピノーザ」に傍線]も亦徹頭徹尾目的論を否定した學者であつて、而かも一方に於ては第三の禍惡觀を取つた人であります。氏の本体は徹頭徹尾無規定のものであつて、毫も『善』といふ着色を帶びて居らぬものでありますが、而かも結末に行くといふと、所謂『神の知的愛』といふことを言つて居る。但し、氏は、其所謂『知的の愛』といふものは通常の愛とは異なるものであつて、唯、一切の事象は神の必然の變態として起るものであるといふことを明むるにあるといふことを、再三、再四、反復して言つては居りますけれども、單に知的の面よりして一切の事象の
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