懷疑思潮に付て
朝永三十郎

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「懷疑思潮に付て」といふ題で御話を致します。前の文學會の席上で厨川文學士の自然主義に付ての御講演がありました。私の講演も矢張り自然主義[#「自然主義」に傍点]に關係して居るのである。併し私は文藝には言はゞ門外漢であります。我邦の自然主義の作物などをチヨイ/\見て、文藝の觀賞者として之に對する漠然たる感想とでも云ふべき者はありますけれども、之と密接の關係を有つて居ると稱せられて居る西洋の作物や又は西洋の文藝の歴史といふ樣なものには非常に暗い。で、こんな公會の席上で文藝の上よりして組織的に自然主義を論評するといふ資格を缺いて居るのであります。其故に、只今は此自然主義の重な動機の一となつて居ると思はるゝ而して一部の自然主義者も亦た自らさう公言して居る懷疑思潮[#「懷疑思潮」に白丸傍点]に付て一言したいと思ふ。
 自然主義は「新小説」の後藤宙外氏なども言て居る通りに、「三四以上の思想を抱く者が自然主義なる一本の傘に雨宿り[#「三四以上の思想を抱く者が自然主義なる一本の傘に雨宿り」に傍点]」して居るので、所謂自然主義者の作物や論議やを取り一々分析して見たならば、藝術觀上又は人生觀上非常に異つた、或は氷炭相容れざる思想があるに相異ない。であるから、自然主義の評論を試みるに當ては先づ其中の色別をするといふのが第一歩であるとも言へる。併し此相傘主義は單に自然主義のみでは無い、殆んど凡ての主義がさうである。殊に未だ充分に議論の精錬を經て居らない新生の主義には其傾向が多い。現に自然主義と類縁を有すると思惟せられて居る「プラグマティズム[#「プラグマティズム」に傍点]」などが其適例である。先頃の「哲學、心理學、科學的方法雜誌」(Journal of Philosophy, Psychology, and Scientific Method)などには種々の「プラグマティスト」の論議を分析して「プラグマティズム」に十三種の別があると説いた論文などが出て居る。自然主義も矢張り新生の主義である。未だ充分に論議の精錬を經て居ない。隨て、等しく自然主義を標榜して居る人々の間に種々の矛盾もあらうし、又た同一の人の論議中にも兩立し難い色々の思想が混在して居るであらう。併し、其處に未だ之から色々に發展して行くべき餘地があるので、其處に生命があると思ふ。併し又た他方より考へて見ると、是れ丈け多樣の思想が同一の旗幟の下に集まるといふにも亦た何等かの因縁があらう。其多數の思想の中には漠然ながらも同一の傾向がありはしないか[#「其多數の思想の中には漠然ながらも同一の傾向がありはしないか」に傍点]。よし一々の人の論議を取て綿密に分析したならば此共通傾向に矛盾する樣なことがあるとするも、其れは其人に此傾向と並行して他の傾向も亦たあるといふことを示すのみで、其人が自然主義の中に籍を置くといふ理由は矢張り此共通傾向をば他の傾向に比較して多量に分有して居るといふ點にあると思ふ。此共通傾向[#「共通傾向」に傍点]を取て批評するといふのも亦た批評の一方であると思ふ。
 一般に、仝一名稱を標榜して居る多數の思想は、顯正の方面に於ては一致が困難であつても、破邪の方面に於ては大體一致して居ることが多い。殊に新生の主義の場合に於てさうである、「プラグマティズム」などが積極即ち顯正の方面の意見に於ては十人十色であるけれども、その目指す敵は何であるかといふ點に於ては大體一致し得る樣に思ふ。如何なる風潮に反抗して起つたか[#「如何なる風潮に反抗して起つたか」に傍点]といふ點に於ては大體一致して居る樣に思ふのであります。自然主義も亦たさうである。積極的の藝術觀人生觀に於ては十人十色であるが、消極の方面に於ては其間に共通の傾向が明かに認めらるゝのである。
 尤も其共通の傾向と申しても種々の方面よりして考察して見ることが出來やう。例へばロマンティック派が余り理想に偏して現實を遠かつたに反對して現實に皈れといふ態度を取つたものと見ることも出來やう。又は在來の寫實派が外的觀察に偏して居つたのに反對して内的省察を重んずる者と見ることも出來やう。併し是等は主として自然派の文藝上に於ける特色である。即ち文藝上の他の主義又は傾向に對しての特色であつて、私の今日の演題とは直接には關係ありません。是等の特色の外に、有意無意の間に自然派の作物又は論議を動かして居る一種の人生觀[#「有意無意の間に自然派の作物又は論議を動かして居る一種の人生觀」に傍点]とでも云ふべきものがあると思ふ。其は即ち懷疑主義[#「懷疑主義」に白丸傍点]である。或は懷疑主義と言はずして懷疑的傾向[#「懷疑的傾向」に白丸傍点]と言つた方が精確である。其れは、自然主義の唱道者の中には此懷疑主義といふことを明確に標榜した者もあれば、是を標榜しない者もある。而して之を標榜しない者の中には懷疑主義を否認して居る者もあるのである。併し、主義の上に於ては之を否認しては居るものゝ、矢張り懷疑的傾向が其作物や論議の重な動機になつて居るといふことは否定出來ない樣である。それから又た、明かに懷疑主義を標榜して居る者に付て見ても其懷疑主義の程度に於ては必ずしも一定して居らぬ。又た、昔から懷疑説といふ者を以て現はれて來て居る種々の説に又た色々の程度の差がある。であるから、此處では懷疑主義と言はずして懷疑的傾向と云つた方が正確であらう。併し又た或は私の眼の屆かない爲めに自然主義者の中には此懷疑的傾向すらも含んで居らない者があるのを知らずに居ることがあるかも知れません。其れならば此講演は、大部分の自然主義者の一般傾向となつて居る懷疑的傾向に就ての講演として置ても差支はありません。
 偖て、是れまで懷疑的傾向といふ言葉を度々用ゐて來ましたが、其懷疑主義とはドウいふ主義であるか[#「其懷疑主義とはドウいふ主義であるか」に傍点]といふことは未だ明かにしてない。で、順序上之を一通り説明しなければならぬ。一概に懷疑主義と言ても、之には種々の程度がある。最低い程度の懷疑主義――或は寧ろ懷疑的傾向であつたならば、苟くも人生上の問題などに付て幾分か考察的の態度を取て居る者は皆な有つて居ると云ふことが出來る。或は寧ろ其人に懷疑的傾向があるからこそ人生問題などを考察しやうといふ樣な考が起つて來るのである。即ち、今まで成立つて居る學問なり、道徳なり、宗教なり、慣習なり、其他學理及實踐に關する先人の主義や教説や教訓やに對して充分に滿足することが出來ないから、自分で以てさういふ問題を考察して見やうといふ態度を取るのであります。併し、斯ういふ人の中でも、唯何となく從來の定説や形式やに不滿足の感を懷くといふのと、極々明白に自分は從來の一切の定説や形式やを疑ふ者であるといふことを自覺し且つ公言するのとの別がある。普通懷疑主義といふ名の冠せらるるのは後者である。此意味の懷疑説の最よい標本は近世哲學の開祖デカルトである。デカルトは其哲學の出發點に於ては、希臘及び中世の先聖の説いたことでも、基督教の經典にあることでも、教會の教理でも、皆な疑はなければならぬ、其他世間の傳承や慣習に基いて居る一切の學理上及實踐上の定説も、疑はなければならぬ、更に進んで外界の存在といふことすら疑はなければならぬ、と説いて「根本的の懷疑」といふことを以て其哲學の出發點となして居る。併し、此程度の懷疑説も、極々徹底したる懷疑説より見れば未だ極めて初歩の者である。デカルトは從來の一切の定説や眞理を疑つて居るけれども、眞理や定説其者を否定しては居らぬ。又た感官の所示たる外界の存在を疑つたけれども、理性の原理たる因果律や矛盾やの正確は疑つては居らぬ。で、從來の一切の定説を疑つた末には、是等の理性の原理に訴へて自家の哲學體系を組織し、之をば確實の眞理と認むるに至つた。「アティカ」哲學の開祖とも稱せらるべきソークラテースも亦同樣である。ソークラテースはデカルトの樣に根本的懷疑といふことを標榜しては居らぬ。併其出發點に於て從前の哲學者の提説に對しても、社會の傳承説や慣習に對しても懷疑的批判の態度を取らなければならぬとした點はデカルトと類似して居る。併し、ソークラテースも、亦各個人の理性には眞理の萠芽を胚胎して居る、之を開發すれば萬人に共通の普汎的の實踐上の標凖を發見することが出來ると見て、其出發點に於ける懷疑的態度を棄てゝ積極的の倫理觀を立てんと試みて居る。是等の學者は過去に對しては[#「過去に對しては」に白三角傍点]懷疑論者であるけれども、まだ徹底した懷疑論者では無い。徹底したる懷疑論者は、眞僞、善惡、美醜の普遍的標凖をば絶對的に否定する者である。希臘の「ソフィスト」は即ち其の最よき標本である。彼等は一切の善惡眞僞の客觀的標凖を否定し、一切の理想を排した。而して、若し強て善惡眞僞の標凖を立つるとすれば、刹那々々に變り行く所の個人の好惡快不快の感が其れであると説いた。即ち、刹那々々に變り行く所の個人を以て一切事物の尺度なりと見て、極端なる個人主義、刹那主義を説いたのである。次に「ソフィスト」と等しく、或は或點に於ては更に甚しく、徹底したる懷疑論者は上世の末期に出でたるピュローン及びセクストゥス・エムピリクスである。(ツイ此間の讀賣新聞であつたと思ひますが、吾邦の自然主義者の人生觀をばピュローンの懷疑説に比較してあつたと覺えて居ります。)併しピュローンやセクストゥス・エムピリクスの懷疑説は「ソフィスト」の懷疑説に比ぶれば稍風格を異にした所がある。「ソフィスト」には一般に余程不眞面目な、輕佻な調がある。尤も「ソフィスト」の親玉株とも云はるべき人物には隨分眞面目な人もあるけれども、其多數殊に其末派の輩は非常に不眞面目である。言はゞ鯰瓢的(瓢箪鯰的といふ言葉の略語です)處世主義とでも云ふべき主義を説き、又た之を實行して居る。即ち刹那々々に自分の利益になり、快樂になるといふことを追ひ求めて、甘く世の中の人の氣に入り、或は世の中の人を誤麻化してゞもよいから、何でも構はず刹那々々の自分を滿足させて甘く世を渡つてさへ行けばよいといふ樣な風があるのである。處がピュローンやセクストゥスやにはそんな鯰瓢的な風格は無い。よし、ソークラテースや、プラトーンや、若くば此懷疑派と同時頃に起つた「ストア」派などの樣な眞摯な眞面目な風格は認められぬまでも、「ソフィスト」の樣な不眞面目な不誠實な風は無い。此一派の懷疑論の道行は大體斯ういふ風になつて居る。吾々は外界に起る種々の出來事や事變に始終攪擾されて居る、其れが爲めに内心の不安が起る、これが人生に於ける不幸の淵源である。眞正の幸福を得んと欲するならば、外界に如何なることが起らうとも毫末も之によりて攪擾されぬといふ境界即ち「アタラクシア」の状態に到達しなければならぬ。然るに「アタラクシア」に到達する第一の邪魔者は是非正邪眞僞の差別見である。凡てのことが善でも無ければ惡でも無い、眞でも無ければ僞でも無い、即ち無記のものであると見る時に初めて「アタラクシア」の境界に到達することが出來る。眞僞善惡の見に着するから内心の平和は得られないのである。吾々は絶對的に眞僞善惡の哲學上倫理上の議論を棄てなければならぬ。哲學や倫理の論は吾々をば際限なき論爭と矛盾とに引入
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