れて、吾々に平和を與ふる代りに却て不安と煩累とを與ふる者であると説いて居る。此議論によりて見ますといふと、ピュローン等が當の敵としたのは主として眞僞善惡に關する哲學上倫理上の議論[#「議論」に白三角傍点]である。「ソフィスト」の樣に世間に行はれて居る倫常を馬鹿にするといふ樣な態度は尠いのである。此點に於てピュローンの懷疑論は「ソフィスト」の其れに比べて餘程穩健である。併し、ピュローン等は他の點に於て「ソフィスト」等が未だ到達する能はざりし所まで懷疑説の論理的皈結をば追究して行つた。其れは即ち、懷疑論は其自身を疑ふに至らざれば徹底したる懷疑論とは云へぬ、己れ自身に對して懷疑的態度を取るに至らざれば眞誠の懷疑論者では無いといふことである。普通の懷疑説は懷疑説は眞理であると固執して居る。確實なる善惡眞僞の標凖は無いといふことに着して居る。併し其れは懷疑説の自家撞着である。苟くも眞誠の懷疑論たる以上は懷疑説が眞理であるとも言へぬ譯である、確實なる善惡眞僞の標凖があるとも言へないが、又た無いとも言へない譯である。眞誠の懷疑論の本義は一切のことに關して絶對的の中性的態度[#「中性的態度」に黒三角傍点](〔Epoche_〕)を取ると云ふことであると説いた。是に至て懷疑論は發展の極に達したと云はねばならぬ。でありますから、其後中世に入り、近世に入りて、懷疑論者と稱せられて居る學者や學派が隨分出て居りますけれども、これ程徹底したる懷疑説は出でゝ居らぬ。若し苟くも何等かの主義といふ樣なことを標榜して出でる以上は、例へば懷疑主義であらうとも、其れは純粹の中性的態度では無い、從つてピュローン流の論法で行けば首尾一貫したる懷疑論では無いのである。ピュローン流の論法で行けば、懷疑論者は何事もハツキリした事は言へぬ譯である。で、ヒュームなどは普通懷疑論者と呼ばれ、又た自らも懷疑論者と稱して居るけれども、歴史家の多くは之を懷疑論者と呼ぶのは適當で無いといふことを説いて居るし、又た自分でもピュローン風の懷疑説をば「過激なる懷疑論」と呼んで、自分の懷疑論をば之を混同されては困るといふことを説いて居る。最近世に於てはニィーッチエが懷疑論者と呼ばれて居る。成る程歴史といふことを排し、現代の文明を根本的に破壞せんとしたる點に於ては頗る激烈なる懷疑論者と見ることが出來る。けれども其破壞的態度は唯過去に對してのみであつて、將來の文化《クルツール》又は文化人《クルツールメンシュ》に付ては極めて明確の理想を立てゝ居る。
 偖て我邦に現はれたる懷疑説は何處まで進んで居るか[#「我邦に現はれたる懷疑説は何處まで進んで居るか」に傍点]。無論懷疑論者の中にも種々の色別があり、程度上の相違はある。從つて一概に言ふ譯には行かぬけれども自然主義者の中で最よく其懷疑的傾向を代表して居ると思はるゝ論者を取て見れば、隨分極度まで進んで居る者がある、即ち、第一に過去及現在の殆んど凡ての哲學、道徳、宗教を排して居る。而して更に進んで、單に過去及現在のみならず、凡ての[#「凡ての」に傍点]哲學上の概念の體系[#「概念の體系」に傍点]を排し、凡ての道徳及宗教上の理想や價値[#「理想や價値」に傍点]を排斥し、隨分徹底したる個人主義、現實主義、刹那主義を主唱して居るのであります。其れから又た其中にはピュローン風な即ち凡てのことに付て中性的の態度を取つて何事も解决しないといふ所に安住するといふ樣な思想もある。又た、「ソフィスト」の樣な、輕佻な青年や俗衆の意に投ぜんとするといふ樣な不眞面目な風格もある樣に思ふ。併し要するに、是等の懷疑論者の中心思想は、凡ての哲學に對して概念の體系[#「概念の體系」に黒三角傍点]を排し、凡ての宗教及道徳に對して理想[#「理想」に黒三角傍点]や規範[#「規範」に黒三角傍点]や價値[#「價値」に黒三角傍点]を排するといふ點にあると見ることが出來ると思ふ。
 今日の自然主義に對する多數の人の態度を見るに、無論少數有識者の除外例はあるが、大體二樣に別れて居る樣である。一は之に附和雷同する者である。一は之を冷評若くば嘲罵する者である。併し双方共に自然主義といふ者を背徳亂倫の辯護者と見肉情の挑發を以て目的として居る事と見る点に於て一致して居る。双方共に自然主義を斯ういふ風に解して、自分の放縱なる生活をジャスティファイする道具に使はんとするものが多く前者に屬し、常套的《コン※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ンショナル》の道徳をば此破壞的風潮よりして救出さうとする者は後者である。輕佻な、血性的な青年が多く前者に赴き、形式的な教育家や、道徳論者や宗教家は主として後者に赴いて居ると思ふ。併し、是等は自然主義といふものを極皮相的に解して居るのである。自然主義は自らジャスティファイして居る一種の人生觀上の主義の上に立つて居るのである。たとへ其主義なる者は必ずしも意識的に明確になりて居らぬまでも、兎に角有意無意の間に此主義に動かされて居ると言はなければならぬ。其處で、吾々は其の主義がドウいふ點までジャスティファイヤブルであるか、言換ふれば其主義中のドレ丈が眞純《ヂェニュイン》であつてドレ丈けが間違つて居るといふことを見なければならぬと思ふ。
 自然主義の懷疑論が一切の概念的體系を排し、一切の規範、理想、價値を排するといふことの過當であることに付ては既に諸方面で論ぜられて居る。懷疑論者の論議其者が已に幾多の概念や矛盾律や三段論法やを道具に使つて居る。又懷疑論者の論議が已に何等かの理想や價値を認めて居る。現に、此排價値、排理想といふことを最鮮明に標榜して居る「太陽」の長谷川天溪氏[#「長谷川天溪氏」に傍点]などが、一切の價値を排しながら、吾々が極力排斥する者は僞善的生活である、内外表裏に矛盾ある生活であると公言して居る。これは即ち、内外表裏の矛盾なき生活、即ち統一ある生活といふ者に價値を置いて居るといふ證據である。「新小説」の後藤宙外氏[#「後藤宙外氏」に傍点]も矢張り此矛盾を指摘して居る。斯ういふ點は明白に懷疑論者の論理上の矛盾である。斯ういふ矛盾を指斥するといふことも無論自然主義論評の一方である。之によりて自然主義其者の議論の精錬を促し、其發展を進めるといふには非常に有効である。既に是までの經過に付て見ても、自然主義の論議は其初めに比ぶれば非常に精錬せられて、非常に純化されて來たと思ふ。併し、斯ういふ論議上の矛盾を指斥したのみで自然主義其者が直ちに破れたと見るは間違である。自然主義の論理上の體系――懷疑論者は斯ういふ言葉を嫌ふかも知れぬけれども――は之に由て一時破れるかも知れぬ。併し此論議上の體系の根底に存する動力は容易に消滅しない。
 懷疑論者が無價値論を標榜しながら[#「懷疑論者が無價値論を標榜しながら」に傍点]、僞善を惡み[#「僞善を惡み」に傍点]、内外表裏の矛盾を醜とし[#「内外表裏の矛盾を醜とし」に傍点]、統一ある生活に價値を認むるといふのは慥かに論理上の矛盾である[#「統一ある生活に價値を認むるといふのは慥かに論理上の矛盾である」に傍点]。此矛盾は决して辯護することは出來ぬ。併し[#「併し」に傍点]、此矛盾の中に懷疑論者の意義が籠つて居ると思ふ[#「此矛盾の中に懷疑論者の意義が籠つて居ると思ふ」に傍点]。今日の懷疑論に若し意義があり[#「今日の懷疑論に若し意義があり」に白三角傍点]、存在の理由がありとすれば[#「存在の理由がありとすれば」に白三角傍点]、此内外の矛盾を惡むといふ點にある[#「此内外の矛盾を惡むといふ點にある」に白三角傍点]。尚ほ語を換へて言へば、哲學の概念も、宗教や道徳の理想や規範も、現實の生きた經驗を離れてあるべきでは無い、其れが動もすると現實の經驗を離れて形式一遍になるといふ弊がある。其處で懷疑論者は現實の經驗に歸れと叫んで居るのである。此點は自然主義の眞純の部分である。併し自然主義者は單にこれ丈けに止まらず、更に極端に進んで現實の經驗に關係あるなしに拘らず一切の概念の體系[#「更に極端に進んで現實の經驗に關係あるなしに拘らず一切の概念の體系」に傍点]、一切の理想[#「一切の理想」に傍点]、一切の價値を斥けて居るのである[#「一切の價値を斥けて居るのである」に傍点]。自然主義の誤は此點に存する[#「自然主義の誤は此點に存する」に傍点]。
 ショーペンハウエルは其「意志及表象としての世界」に下の樣なことを言て居る。吾々の知能は之を銀行に喩へることが出來る。吾々の知能中に於ける表象(觀念)は之を二種に大別することが出來る。一は抽象表象(概念)、一は直覺表象(經驗)である。抽象表象は銀行に於ける紙幣と同樣の役目をする者である。紙幣が正金を代表して重苦しい正金の運用を助けるが如く、概念は直覺表象即ち具體的の經驗を代表して其運用を助ける。人間の禽獸と異なるは抽象表象の作用を有するが故である。禽獸は唯直覺表象の外有せざるが故に、唯々眼前のこと、現在のことの外知る能はざるも、人間は抽象表象の力によりて遠く慮かり、遠大なる計畫を立てゝ行くことが出來る。恰かも正金のみありては不便であるのに、紙幣や手形がある爲めに金錢の送達や取引が手輕に運ぶのと同樣である。併し、抽象概念は其自身に價値を有する者では無い、唯具體的の經驗を代表するといふ點よりして價値を有するのみ。恰かも紙幣や手形が正金を代表せざるに至れば紙屑同樣となつてしまふのと同樣である。具體的の經驗を離れて抽象的思考其者に價値を認むる者は正金を離れて紙幣や手形が價値を有すると思ふ者と選ばない。古來多數の哲學者は此弊に陷つて居る。具體的の經驗を閑却して抽象概念のみをいぢくりまはして居る學者の知能は、金庫を空にして紙幣や手形のみを濫發する銀行同樣、早晩破産を脱れぬであらうと。斯うショーペンハウエルは言て居る。
 今日哲學上に於て、此の空紙幣の弊や、流通後れの紙幣を後生大事に貯藏せんとするといふ樣な弊に對して、之を救はんとして出でたる者の一が即ち「プラグマティズム」である。或「プラグマティスト」の濫造と認むる者が眞に悉く濫造であるかは愼重の考査を要する問題であるけれども、哲學なるものが往々生きた哲學的良心を代表せずして形式的に流るゝことがあるといふは事實である。「プラグマティズム」は此弊處を衝いた者として大なる意味を有すると思ふ。而して懷疑論者の排哲學の聲も亦此弊に對する矯激の聲である。懷疑論者は正金を代表せざる紙幣を破棄せんとする者である。併し、單に此處に止まらずして、更に進んで正金を代表して居る紙幣までも破棄せねばならぬと叫んで居る。第一の點に於て懷疑論は意義を有する。併し第二の點に於ては誤つて居る。昔、「エレア」學派の哲學者は經驗の世界を説明せんとして起つた哲學をば全然經驗界に絶縁せしめ、哲學上の原理を立てんが爲めに經驗界の存在をば全然否定して了つて、而して此經驗界を犧牲にして想定したる所謂「實有」といふものをば力を極めて保持しやうと力めた。「エレア」の「實有」はショーペンハウエルの所謂空の紙幣である。「エレア」派より出でて而かも此「實有」は空なりと叫んだゴルギアスは初めて之に氣着いたのである。併し、單に「實有」は空なりと叫んだのみならず、凡てが空なりと叫んで徹底した虚無説を説いたのは、凡ての紙幣の意義を滅却したる極端の説である。今日の懷疑説の態度も又頗る之に類して居る。
 以上は哲學に付て言つたのでありますが、宗教や道徳に付ても同樣のことが言へると思ふ。今日の宗教上の形式や[#「今日の宗教上の形式や」に傍点]、説教や[#「説教や」に傍点]、又は宗教家の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け現實の生きたる宗教的經驗を代表して居るか[#「又は宗教家の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け現實の生きたる宗教的經驗を代表して居るか」に傍点]。今日の道徳上の形式や[#「今日の道徳上の形式や」に傍点]、説教や[#「説教や」に傍点]、又た道徳論者の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け世人の人格の經驗より湧出でたことであるか[#「又た道
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