く世を渡つてさへ行けばよいといふ樣な風があるのである。處がピュローンやセクストゥスやにはそんな鯰瓢的な風格は無い。よし、ソークラテースや、プラトーンや、若くば此懷疑派と同時頃に起つた「ストア」派などの樣な眞摯な眞面目な風格は認められぬまでも、「ソフィスト」の樣な不眞面目な不誠實な風は無い。此一派の懷疑論の道行は大體斯ういふ風になつて居る。吾々は外界に起る種々の出來事や事變に始終攪擾されて居る、其れが爲めに内心の不安が起る、これが人生に於ける不幸の淵源である。眞正の幸福を得んと欲するならば、外界に如何なることが起らうとも毫末も之によりて攪擾されぬといふ境界即ち「アタラクシア」の状態に到達しなければならぬ。然るに「アタラクシア」に到達する第一の邪魔者は是非正邪眞僞の差別見である。凡てのことが善でも無ければ惡でも無い、眞でも無ければ僞でも無い、即ち無記のものであると見る時に初めて「アタラクシア」の境界に到達することが出來る。眞僞善惡の見に着するから内心の平和は得られないのである。吾々は絶對的に眞僞善惡の哲學上倫理上の議論を棄てなければならぬ。哲學や倫理の論は吾々をば際限なき論爭と矛盾とに引入
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