先人の主義や教説や教訓やに對して充分に滿足することが出來ないから、自分で以てさういふ問題を考察して見やうといふ態度を取るのであります。併し、斯ういふ人の中でも、唯何となく從來の定説や形式やに不滿足の感を懷くといふのと、極々明白に自分は從來の一切の定説や形式やを疑ふ者であるといふことを自覺し且つ公言するのとの別がある。普通懷疑主義といふ名の冠せらるるのは後者である。此意味の懷疑説の最よい標本は近世哲學の開祖デカルトである。デカルトは其哲學の出發點に於ては、希臘及び中世の先聖の説いたことでも、基督教の經典にあることでも、教會の教理でも、皆な疑はなければならぬ、其他世間の傳承や慣習に基いて居る一切の學理上及實踐上の定説も、疑はなければならぬ、更に進んで外界の存在といふことすら疑はなければならぬ、と説いて「根本的の懷疑」といふことを以て其哲學の出發點となして居る。併し、此程度の懷疑説も、極々徹底したる懷疑説より見れば未だ極めて初歩の者である。デカルトは從來の一切の定説や眞理を疑つて居るけれども、眞理や定説其者を否定しては居らぬ。又た感官の所示たる外界の存在を疑つたけれども、理性の原理たる因果律
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