觀上の主義の上に立つて居るのである。たとへ其主義なる者は必ずしも意識的に明確になりて居らぬまでも、兎に角有意無意の間に此主義に動かされて居ると言はなければならぬ。其處で、吾々は其の主義がドウいふ點までジャスティファイヤブルであるか、言換ふれば其主義中のドレ丈が眞純《ヂェニュイン》であつてドレ丈けが間違つて居るといふことを見なければならぬと思ふ。
自然主義の懷疑論が一切の概念的體系を排し、一切の規範、理想、價値を排するといふことの過當であることに付ては既に諸方面で論ぜられて居る。懷疑論者の論議其者が已に幾多の概念や矛盾律や三段論法やを道具に使つて居る。又懷疑論者の論議が已に何等かの理想や價値を認めて居る。現に、此排價値、排理想といふことを最鮮明に標榜して居る「太陽」の長谷川天溪氏[#「長谷川天溪氏」に傍点]などが、一切の價値を排しながら、吾々が極力排斥する者は僞善的生活である、内外表裏に矛盾ある生活であると公言して居る。これは即ち、内外表裏の矛盾なき生活、即ち統一ある生活といふ者に價値を置いて居るといふ證據である。「新小説」の後藤宙外氏[#「後藤宙外氏」に傍点]も矢張り此矛盾を指摘して
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