先人の主義や教説や教訓やに對して充分に滿足することが出來ないから、自分で以てさういふ問題を考察して見やうといふ態度を取るのであります。併し、斯ういふ人の中でも、唯何となく從來の定説や形式やに不滿足の感を懷くといふのと、極々明白に自分は從來の一切の定説や形式やを疑ふ者であるといふことを自覺し且つ公言するのとの別がある。普通懷疑主義といふ名の冠せらるるのは後者である。此意味の懷疑説の最よい標本は近世哲學の開祖デカルトである。デカルトは其哲學の出發點に於ては、希臘及び中世の先聖の説いたことでも、基督教の經典にあることでも、教會の教理でも、皆な疑はなければならぬ、其他世間の傳承や慣習に基いて居る一切の學理上及實踐上の定説も、疑はなければならぬ、更に進んで外界の存在といふことすら疑はなければならぬ、と説いて「根本的の懷疑」といふことを以て其哲學の出發點となして居る。併し、此程度の懷疑説も、極々徹底したる懷疑説より見れば未だ極めて初歩の者である。デカルトは從來の一切の定説や眞理を疑つて居るけれども、眞理や定説其者を否定しては居らぬ。又た感官の所示たる外界の存在を疑つたけれども、理性の原理たる因果律や矛盾やの正確は疑つては居らぬ。で、從來の一切の定説を疑つた末には、是等の理性の原理に訴へて自家の哲學體系を組織し、之をば確實の眞理と認むるに至つた。「アティカ」哲學の開祖とも稱せらるべきソークラテースも亦同樣である。ソークラテースはデカルトの樣に根本的懷疑といふことを標榜しては居らぬ。併其出發點に於て從前の哲學者の提説に對しても、社會の傳承説や慣習に對しても懷疑的批判の態度を取らなければならぬとした點はデカルトと類似して居る。併し、ソークラテースも、亦各個人の理性には眞理の萠芽を胚胎して居る、之を開發すれば萬人に共通の普汎的の實踐上の標凖を發見することが出來ると見て、其出發點に於ける懷疑的態度を棄てゝ積極的の倫理觀を立てんと試みて居る。是等の學者は過去に對しては[#「過去に對しては」に白三角傍点]懷疑論者であるけれども、まだ徹底した懷疑論者では無い。徹底したる懷疑論者は、眞僞、善惡、美醜の普遍的標凖をば絶對的に否定する者である。希臘の「ソフィスト」は即ち其の最よき標本である。彼等は一切の善惡眞僞の客觀的標凖を否定し、一切の理想を排した。而して、若し強て善惡眞僞の標凖を立つるとすれば、
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