とも出來やう。又は在來の寫實派が外的觀察に偏して居つたのに反對して内的省察を重んずる者と見ることも出來やう。併し是等は主として自然派の文藝上に於ける特色である。即ち文藝上の他の主義又は傾向に對しての特色であつて、私の今日の演題とは直接には關係ありません。是等の特色の外に、有意無意の間に自然派の作物又は論議を動かして居る一種の人生觀[#「有意無意の間に自然派の作物又は論議を動かして居る一種の人生觀」に傍点]とでも云ふべきものがあると思ふ。其は即ち懷疑主義[#「懷疑主義」に白丸傍点]である。或は懷疑主義と言はずして懷疑的傾向[#「懷疑的傾向」に白丸傍点]と言つた方が精確である。其れは、自然主義の唱道者の中には此懷疑主義といふことを明確に標榜した者もあれば、是を標榜しない者もある。而して之を標榜しない者の中には懷疑主義を否認して居る者もあるのである。併し、主義の上に於ては之を否認しては居るものゝ、矢張り懷疑的傾向が其作物や論議の重な動機になつて居るといふことは否定出來ない樣である。それから又た、明かに懷疑主義を標榜して居る者に付て見ても其懷疑主義の程度に於ては必ずしも一定して居らぬ。又た、昔から懷疑説といふ者を以て現はれて來て居る種々の説に又た色々の程度の差がある。であるから、此處では懷疑主義と言はずして懷疑的傾向と云つた方が正確であらう。併し又た或は私の眼の屆かない爲めに自然主義者の中には此懷疑的傾向すらも含んで居らない者があるのを知らずに居ることがあるかも知れません。其れならば此講演は、大部分の自然主義者の一般傾向となつて居る懷疑的傾向に就ての講演として置ても差支はありません。
 偖て、是れまで懷疑的傾向といふ言葉を度々用ゐて來ましたが、其懷疑主義とはドウいふ主義であるか[#「其懷疑主義とはドウいふ主義であるか」に傍点]といふことは未だ明かにしてない。で、順序上之を一通り説明しなければならぬ。一概に懷疑主義と言ても、之には種々の程度がある。最低い程度の懷疑主義――或は寧ろ懷疑的傾向であつたならば、苟くも人生上の問題などに付て幾分か考察的の態度を取て居る者は皆な有つて居ると云ふことが出來る。或は寧ろ其人に懷疑的傾向があるからこそ人生問題などを考察しやうといふ樣な考が起つて來るのである。即ち、今まで成立つて居る學問なり、道徳なり、宗教なり、慣習なり、其他學理及實踐に關する
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