刹那々々に變り行く所の個人の好惡快不快の感が其れであると説いた。即ち、刹那々々に變り行く所の個人を以て一切事物の尺度なりと見て、極端なる個人主義、刹那主義を説いたのである。次に「ソフィスト」と等しく、或は或點に於ては更に甚しく、徹底したる懷疑論者は上世の末期に出でたるピュローン及びセクストゥス・エムピリクスである。(ツイ此間の讀賣新聞であつたと思ひますが、吾邦の自然主義者の人生觀をばピュローンの懷疑説に比較してあつたと覺えて居ります。)併しピュローンやセクストゥス・エムピリクスの懷疑説は「ソフィスト」の懷疑説に比ぶれば稍風格を異にした所がある。「ソフィスト」には一般に余程不眞面目な、輕佻な調がある。尤も「ソフィスト」の親玉株とも云はるべき人物には隨分眞面目な人もあるけれども、其多數殊に其末派の輩は非常に不眞面目である。言はゞ鯰瓢的(瓢箪鯰的といふ言葉の略語です)處世主義とでも云ふべき主義を説き、又た之を實行して居る。即ち刹那々々に自分の利益になり、快樂になるといふことを追ひ求めて、甘く世の中の人の氣に入り、或は世の中の人を誤麻化してゞもよいから、何でも構はず刹那々々の自分を滿足させて甘く世を渡つてさへ行けばよいといふ樣な風があるのである。處がピュローンやセクストゥスやにはそんな鯰瓢的な風格は無い。よし、ソークラテースや、プラトーンや、若くば此懷疑派と同時頃に起つた「ストア」派などの樣な眞摯な眞面目な風格は認められぬまでも、「ソフィスト」の樣な不眞面目な不誠實な風は無い。此一派の懷疑論の道行は大體斯ういふ風になつて居る。吾々は外界に起る種々の出來事や事變に始終攪擾されて居る、其れが爲めに内心の不安が起る、これが人生に於ける不幸の淵源である。眞正の幸福を得んと欲するならば、外界に如何なることが起らうとも毫末も之によりて攪擾されぬといふ境界即ち「アタラクシア」の状態に到達しなければならぬ。然るに「アタラクシア」に到達する第一の邪魔者は是非正邪眞僞の差別見である。凡てのことが善でも無ければ惡でも無い、眞でも無ければ僞でも無い、即ち無記のものであると見る時に初めて「アタラクシア」の境界に到達することが出來る。眞僞善惡の見に着するから内心の平和は得られないのである。吾々は絶對的に眞僞善惡の哲學上倫理上の議論を棄てなければならぬ。哲學や倫理の論は吾々をば際限なき論爭と矛盾とに引入
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