徳論者の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け世人の人格の經驗より湧出でたことであるか」に傍点]。若し此點を考へたならば[#「若し此點を考へたならば」に傍点]、懷疑論者の言説の一半が誤つて居ると共に他の一半には汲むべき意義があると思ふ[#「懷疑論者の言説の一半が誤つて居ると共に他の一半には汲むべき意義があると思ふ」に傍点]。自然主義の中に、眞摯を缺くと云ふ樣なことや、又は輕佻で不眞面目な青年若くば俗衆の意に投ぜんとするといふ樣な陋劣な傾向が伴うて居ることも否定すべからざる事實であらうと思ふ。乍併斯の如き自然主義や懷疑思潮が起り、たとへ輕佻で不眞面目な青年や俗衆にもせよ、其の青年や俗衆やが、翕然として之に趣くに至るといふ責任の一半は、生命の無い形式を墨守せんとする所の宗教や道徳其の者が分たねばならぬのではあるまいか、宗教家も[#「宗教家も」に傍点]、道徳家も[#「道徳家も」に傍点]、青筋を立てゝ自然主義を攻撃するに先つて先づ肅然として自らを顧み[#「青筋を立てゝ自然主義を攻撃するに先つて先づ肅然として自らを顧み」に傍点]、自ら果して眞に眞面目であるか[#「自ら果して眞に眞面目であるか」に傍点]、自らが其宗教的良心なり道徳の良心なりに對しては眞に眞摯であるかを眞面目に熟考して見なければならぬと思ふのであります[#「自らが其宗教的良心なり道徳の良心なりに對しては眞に眞摯であるかを眞面目に熟考して見なければならぬと思ふのであります」に傍点]。
 如何なる主義でも、如何なる運動でも、若し其れが切實なる自己内心の要求より起つた者であり、又たは時勢に對する眞面目なる憂慮より出でた者であるならば、たとへ其れが矯激であつても、中を失して居つても、其れが切實なる程度に於て、其れが眞面目である程度に於て、必ず人を動かす力を有する者である。即ち其れ丈けの程度に於て必ずヘーゲルの所謂|擧揚《アウフヘーベン》されたる契機《モーメント》として將來の人文中に永久に生きて行くべき者であると私は信ずるのであります。併唯其れだけの程度だけである。懷疑主義には前に述べました通り、幾多の輕佻な不眞面目な要素を混じて居るであらう。又た、我國民性の弱點として、外國の自然主義や懷疑思潮に附和雷同したといふ傾向もあらう。又た、輕佻な附和雷同的な青年や俗衆の人氣取りといふ樣な風もあらう。要するに、切實でない、眞摯で無い
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