のみをいぢくりまはして居る學者の知能は、金庫を空にして紙幣や手形のみを濫發する銀行同樣、早晩破産を脱れぬであらうと。斯うショーペンハウエルは言て居る。
 今日哲學上に於て、此の空紙幣の弊や、流通後れの紙幣を後生大事に貯藏せんとするといふ樣な弊に對して、之を救はんとして出でたる者の一が即ち「プラグマティズム」である。或「プラグマティスト」の濫造と認むる者が眞に悉く濫造であるかは愼重の考査を要する問題であるけれども、哲學なるものが往々生きた哲學的良心を代表せずして形式的に流るゝことがあるといふは事實である。「プラグマティズム」は此弊處を衝いた者として大なる意味を有すると思ふ。而して懷疑論者の排哲學の聲も亦此弊に對する矯激の聲である。懷疑論者は正金を代表せざる紙幣を破棄せんとする者である。併し、單に此處に止まらずして、更に進んで正金を代表して居る紙幣までも破棄せねばならぬと叫んで居る。第一の點に於て懷疑論は意義を有する。併し第二の點に於ては誤つて居る。昔、「エレア」學派の哲學者は經驗の世界を説明せんとして起つた哲學をば全然經驗界に絶縁せしめ、哲學上の原理を立てんが爲めに經驗界の存在をば全然否定して了つて、而して此經驗界を犧牲にして想定したる所謂「實有」といふものをば力を極めて保持しやうと力めた。「エレア」の「實有」はショーペンハウエルの所謂空の紙幣である。「エレア」派より出でて而かも此「實有」は空なりと叫んだゴルギアスは初めて之に氣着いたのである。併し、單に「實有」は空なりと叫んだのみならず、凡てが空なりと叫んで徹底した虚無説を説いたのは、凡ての紙幣の意義を滅却したる極端の説である。今日の懷疑説の態度も又頗る之に類して居る。
 以上は哲學に付て言つたのでありますが、宗教や道徳に付ても同樣のことが言へると思ふ。今日の宗教上の形式や[#「今日の宗教上の形式や」に傍点]、説教や[#「説教や」に傍点]、又は宗教家の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け現實の生きたる宗教的經驗を代表して居るか[#「又は宗教家の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け現實の生きたる宗教的經驗を代表して居るか」に傍点]。今日の道徳上の形式や[#「今日の道徳上の形式や」に傍点]、説教や[#「説教や」に傍点]、又た道徳論者の口舌の上で説かれて居ることがどれ丈け世人の人格の經驗より湧出でたことであるか[#「又た道
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